小川洋子『妊娠カレンダー』―感覚で味わう“雨”

妊娠カレンダー (文春文庫)


【収録作】
「妊娠カレンダー」
「ドミトリイ」
「夕暮れの給食室と雨のプール」


表題作は第104回芥川賞受賞作。妊娠した姉を巡るさまざまな出来事や妹の心の揺れを描いた作品。“妊娠”という一般的にはめでたいこと、祝福されるべきことをまた違った角度からとらえていて、怪談のような怖ささえ感じる。
が、ただいま梅雨真っ只中ということで、今回は“雨”が印象的な他2作、「ドミトリイ」「夕暮れの給食室と雨のプール」をピックアップ。

「ドミトリイ」は、「わたし」の元にいとこの青年から電話がかかってくることから始まる。大学生になるいとこは、主人公が昔入っていた学生寮に自分も入りたいのだと言う。その古く独特な雰囲気の学生寮には、両手と片足がない先生が住んでいて……という話。
「夕暮れの給食室と雨のプール」は結婚のために中古の家に引っ越した「わたし」が、ある不思議な親子と出会う話。父親は宗教の勧誘員のようだが、それにしては強引さもない上に幼い子どもを連れている。主人公は何となく惹きつけられて……。

「ドミトリイ」は音が重要なモチーフとして登場する。その中で、“蜜蜂の羽音”そして“雨音”が印象的に描写されている。
たとえばこの場面。

その静けさの中で、不意に何かが鼓膜を揺らした。蜜蜂だ、とわたしはすぐに分った。それは強くなったり弱くなったりせず、同じ波長で一直線に響いていた。辛抱強く耳の奥に気持ちを集中させていると、羽がこすれ合う時のかすれるような音も確かに聞くことができた。雨の音はそれと交わることのない、ずっと底の方で淀んでいた。(小川洋子「ドミトリイ」『妊娠カレンダー』文藝春秋、1994年2月、142頁)

通奏低音のように、という使い古された言葉がまさにあてはまるだろうか。しとしと降り続ける雨の音が低く鳴り続け、羽音を際立たせる。
雨の音が醸し出す静けさがよく表現されている。そして、この独特の静けさが作品全体の底に流れて、静謐な雰囲気を作り出している。

一方、「夕暮れの給食室と雨のプール」では、視覚的、皮膚感覚的な雨が描かれる。
作品冒頭では、雨ではないが、印象的な“霧”が描写される。

霧はゆっくりうねりながら、一つの方向へ流れていた。それは風景をすっぽり包み込んでしまうような息苦しい霧ではなく、透明な清らかさを持っていた。手をのばすと、その薄くてひんやりしたベールの感触を味わうことができそうだった。(「夕暮れの給食室と雨のプール」、同書、151頁)

同じ霧でも、皮膚にまとわりつくようなじめっとした霧と清々しさのある優しい霧とは違う。その微妙な違いを視覚、皮膚感覚で表現し、読者にイメージさせる。

そして物語の重要なモチーフとなるのが“雨のプール”である。

そして雨が降ると、プールの風景はもう救いようがなくなってしまいます。プールサイドに落ちる雨はいつまでたっても乾かず、くすんだ染みになって残っている。プールの表面は一面、雨粒が作り出す水模様のせいで、無数の小魚が餌を欲しがってうごめいているみたいに見える。(「夕暮れの給食室と雨のプール」、同書、178頁)

水の張ったプールに雨が降り注ぐという日常的な光景が、無数の小魚がうごめくという非日常的な光景と重ね合わせられている。一見共通点のなさそうなふたつの光景だが、無数の小魚が餌を求めて動く感じ、跳ねる感じというのが、確かに雨粒が水面に打ち付ける感じと似ている。ただ雨が水面に打ち付けると書くよりも、小魚がうごめいていると書くほうが“映像”としてイメージしやすい。全く異なる光景を持ってくることで、雨がプールに降り注ぐイメージを“映像”として視覚に訴えている。
この作品に限らず、小川洋子氏の文章は視覚的、映像的なのだが、小川氏自身もこう語っている。

私の場合は、小説のある場面が頭に浮かんできまして、それは非常に鮮やかなんです。今、脳みそから取り出してきて皆さんにお見せできたらどんなにいいだろうというぐらい、ものすごくリアルで、色もあるし、風もあるし、人も動いていますし、言葉を発しているし、生々しいものなんです。(小川洋子『小川洋子対話集』幻冬舎、2007年1月、135頁)

また、ギャップの効果もある。無数の小魚がうごめいているという、ある意味気持ち悪い映像を想像させることで、単なる雨の風景でさえ非日常的ひいては非現実的・幻想的な風景になる。普通の日常を書いた小説でも、どことなくファンタジック(ゴシック)になるのはこうした効果だろう。

聴覚、皮膚感覚そして視覚と、さまざまな感覚で“雨”を感じることのできる短編2作。この季節に、ぜひ。


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by hitsujigusa | 2013-06-29 00:27 | 小説 | Trackback | Comments(0)