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小川洋子『博士の愛した数式』―フィクションと現実の邂逅

博士の愛した数式 (新潮文庫)


【あらすじ】
 ある家に派遣された家政婦の“私”が出会ったのは、記憶が80分しかもたない老数学者の“博士”だった。ほとんどのことに無関心で、数字に関することにしか興味を示さない博士に、最初は戸惑う“私”だったが、数字を通して徐々に心を通わせていく。そこに“私”の息子も加わるようになると、博士と“私”の関係にも変化が表れ始め――。



 3月14日はホワイトデーとして有名ですが、数学の日でもあります。それにちなんで、今回は小川洋子さんの長編小説『博士の愛した数式』をピックアップ。
 『博士の愛した数式』は雑誌『新潮』に掲載後、2003年に単行本で出版され、第55回読売文学賞を受賞。創設されたばかりだった第1回本屋大賞の大賞にも選ばれ、純文学としては異例のヒットを記録。2006年には映画化もされており、小川洋子作品の中では最もよく知られた小説だろうと思う。

 『博士の愛した数式』は、一見ファンタジックな小説である。固有名詞をできるだけ排除した基本設定に加え、記憶が80分しかもたない老数学者、偶然派遣される若き家政婦、博士の秘密を知る謎めいた義理の姉と、人物たちもファンタジーめいた要素を多分に含んでいるが、さらにストーリーも、博士、“私”、その息子(愛称はルート)の3人が疑似家族化していくというハートウォーミングな展開。生活に必要不可欠な生々しいにおいのない物語は、ある種の非日常性を漂わせる。
 その独特の空気感に彩りを添えるのが、この物語の影の主役ともいえる“数字”である。無機質でお堅いイメージのある“数字”が、この物語では実に魅力的なものとして描かれている。たとえば、“私”の誕生日2月20日の数字220と、博士の腕時計に刻まれた数字284の関係を、博士が“私”に教えるこんな場面。


 博士は記号を書き加えていった。

  220:1+2+4+5+10+11+20+22+44+55+110=
     =142+71+4+2+1:284

「計算してごらん。ゆっくりで、構わないから」
 博士は私に鉛筆を手渡した。私は折り込み広告の余白に筆算した。予感と優しさに満ちた口調だったので、テストされている気分にならずにすんだ。むしろ、さっきまで陥っていた困った展開を脱し、正しい答えを導き出すのは自分しかいないのだ、という使命感がわいてくるのを感じた。

(中略)
「はい、できました」

  220:1+2+4+5+10+11+20+22+44+55+110=284
  220=142+71+4+2+1:284

「正解だ。見てご覧、この素晴らしい一続きの数字の連なりを。220の約数の和は284。284の約数の和は220。友愛数だ。滅多に存在しない組合せだよ。フェルマーだってデカルトだって、一組ずつしか見つけられなかった。神の計らいを受けた絆で結ばれ合った数字なんだ。美しいと思わないかい? 君の誕生日と、僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェーンでつながり合っているなんて」
 私たちはただの広告の紙に、いつまでも視線を落としていた。瞬く星を結んで夜空に星座を描くように、博士の書いた数字と、私の書いた数字が、淀みない一つの流れとなって巡っている様を目で追い掛けていた。
(小川洋子『博士の愛した数式』新潮社、2005年12月、31頁)


 このようにロマンさえ漂わせる“数字”がそこここに散りばめられ、かつ、神秘を帯びた数学という存在の効果もあって、『博士の愛した数式』は現実世界を舞台にした小説でありながらも、どこか現実から一歩離れたところのお話のようにも見える。“数字”だけなら、それだけで終わっていただろう。
 その“数字小説”の色濃い『博士の愛した数式』に、異なる色を加えたのが“野球”である。

 博士や“ルート”が野球好き(特に阪神タイガースのファン)ということもあって、作品には野球に関連する場面が数多く登場する。登場人物の名前や地名などの固有名詞がほとんどない中で、実在するチーム名や選手名といった野球に関する語句が、幻想的な物語に世俗的なにおいを与え、これが現実の物語であることを示す。
 極めつけは阪神タイガースの大エース、江夏豊である。江夏豊は博士が最も愛する野球選手だが、その江夏の現役時代の背番号がなんと完全数28なのである。完全数とはその数自身を除いた約数を足していくと、その数自身と等しくなるという類い稀なる数字のこと。その完全数28を、日本球界史上最高のピッチャーといってもよい完全なる投手江夏豊が背負っていたという事実。フィクションにまぎれもない現実が加わることによって、作者さえも意図し得ない強固なリアリティを、この物語は獲得したのだ。

 単行本が出版された2003年、長年下位低迷を続けていた阪神タイガースは18年ぶりのリーグ優勝を成し遂げた。伝説の名投手江夏豊が完全数を背負っていたという偶然は、フィクションだけでは得られなかった深みと重みを物語に与えたが、さらに本が出版されたその年にタイガースが優勝するという偶然の奇跡によって、予期せぬ感慨をこの作品は生み出したのではないかと思う。
 友愛数、双子素数、三角数、ルース=アーロン・ペア、メルセンヌ素数、完全数。葛西、亀山、中田、新庄、パチョレック、中込、八木、そして江夏。数字と野球という確固たる現実と、文学という非現実との素敵な邂逅が、何よりもこの作品にかけがえのない魅力を付与している。


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by hitsujigusa | 2014-03-14 01:54 | 小説