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予定日はジミー・ペイジ (新潮文庫)


【あらすじ】
 夫と性交し流れ星を見た夜、何の前触れもなく妊娠したこと感じ取ったマキ。その約2か月後、産婦人科で「おめでたですね」と言われ実際に妊娠したことを知る。子どもができたことを知った夫・さんちゃんは手放しで喜ぶが、マキはなぜか素直に喜ぶことができず――。


 今日3月8日は小説家の角田光代さんの誕生日です。ということで今回は角田さんの長編小説『予定日はジミー・ペイジ』を取り上げます。
 角田光代さんといえば『対岸の彼女』で直木賞受賞、『八日目の蝉』で中央公論文芸賞受賞、『紙の月』で柴田錬三郎賞受賞など数々の文学賞を受賞、数多くの作品が映像化されている人気作家の一人。作風的には代表作の『八日目の蝉』や『紙の月』のようにふとしたきっかけから人生を狂わせていく女性を描いた重厚な小説が近年は多いですが、元々ジュニア小説や児童文学から出発している作家ということもあってほのぼのした雰囲気の小説も多く手がけています。どちらにしろ角田さんといえばやはり女性の心理や機微を描写することに長けていて、そんな中で妊娠した女性の繊細な心情を綴った『予定日はジミー・ペイジ』は角田光代という小説家の魅力がぎゅうっと詰まった長編小説となっています。

 『予定日はジミー・ペイジ』は専業主婦の妊婦・マキの日常が日記形式で書かれています。物語の始まりは4月。夫と性交した夜、マキは妊娠したかもと思い、実際におよそ2か月後の6月10日に産婦人科で妊娠が判明します。
 妊婦が主人公の小説というと幸せなマタニティライフを描いたものを想像してしまいますが、この小説は全編に渡って主人公マキの妊娠に対する不安、疑念がリアルに描かれます。
 まず妊娠を知った直後からマキはこんな感じです。


 おめでたですよと言われて、めでたいですかと訊き返す私は、きっとおかしな人間なんだろうと思う。どこかまちがっている。歪んでいる。母性欠落。どうしよう。
 おなかに手をあてて、ごめんとちいさく言ってみる。あんただって、「やったあ」と叫んでくれる女の人のおなかに入りたかったよね。でもさ、言い訳じゃないけどね、うれしくないんじゃなくてわかんないだけなんだと思うよ。だってはじめてなんだもん。自分の体に自分以外の何ものかが入ってるなんてさ。



 現代においても“母性神話”というのは存在するもので、しかもなかなかにそれは強固で世の中の母親にプレッシャーを与えるものであるように思います。好きな人の子どもができたらうれしいのは当たり前、女性に母性本能が備わっているのは当たり前。そうした固定観念をこの小説は最初っからひっくり返します。
 一方でマキの夫であるさんちゃんは無邪気です。妊娠を知った途端大喜びします。自分の体の中に突然“赤ん坊”という異物が飛び込んできて否応なく変化を強いられる女性と、自分自身に何ら変化がなくとも観念だけで父親になれてしまう男性。現実を突きつけられる女性と、幻想を抱く男性。妊娠という出来事によって浮かび上がる女性と男性のギャップをもつまびらかにしています。
 そんなもやもやを抱えつつも、マキはいろんなものをなめたくなる衝動に駆られたり、冷やし中華ばかり食べたくなったり、変な夢ばかり見たりする中で、妊娠に伴う体の変化を少しずつ受け容れ、というより“妊娠”という抗いようのない事実に身を任せていきます。しかし、急激な体の変貌ぶりに比して心はなかなか追いつかず。“プレママクラス”なる会に参加したマキはそれまでに溜めに溜めた不満を心の内でぶちまけます。


 うるせえ、うるせえ、うるせえ、うるせえ。心のなかで何度も言いながら、よたよたと駅に向かった。知ってるよ、全部知ってる、母親が不安だったらよくないって、怒ると酸素が届かないって、産みたくないなんて思ったら赤ん坊にもろばれだって、何度も何度もどっかで読んだしき聞かされた、そんなこたあ知ってんの、だけど私は機械じゃないんだもん。子ができた瞬間にメンテナンス万端の子産みマシンじゃないんだもん。それにほかのだれでもないんだもん。


 それまで何の肩書きも責任もなかった一人の女性が、妊娠した途端に良い意味でも悪い意味でも“妊婦”という特別な存在となる。“妊婦”なのだからお腹の赤ちゃんのことを最優先に考えるのは当然で自分のことは我慢するのが当然。妊婦である前に一人の女性であり人間であるという真実が、“妊婦”という名前が持つ力によって押し潰されないがしろにされてしまう。当たり前を当たり前と思わず世間が提示する“妊婦像”に抗うマキの姿は、不器用でみっともなくて、でも自分の感情や感覚に正直ですがすがしくもあります。
 妊娠とは、子どもを産むとは何か。膨らんでいくお腹とともに数か月過ごしたマキがたどり着いた答えとは……。こんなふうに書くと社会派小説みたいでお堅い話かと思われるかもしれませんが全くそんなことはありません。あくまでも妊婦を主人公とした日常小説で、それを支えているのはやはり生活の匂いがぷんぷんする豊かなディテールの描写。特に印象的なのは食べものです。たとえば妊娠が判明した日の夕食はほうれん草ゴマ和え、カジキ鮪の生姜ソテー、ささみとセロリのサラダ。6月27日は近所のお好み焼き屋の豚玉と海老玉とチーズ玉と焼きそば。11月1日は鯛の塩釜、卵とベーコンのグリーンサラダ、海老と長芋の春巻き。大晦日は年越しそばと手作り餃子。日々の出来事の描写の中にさりげなく差し挟まれる食べもののシーンは、妊娠しても変わらないマキのスタンスを示すとともに、食べることも妊娠することも同じ日常の一部という同列のものとしてとらえている感じもします。もちろん新たな命が生まれるというのは特別なことなのですが、食べたり眠ったり排泄したりという全てのいきものの自然のサイクルのうちの一つでもあって、その特別視しすぎない感じも、“マタニティ小説”という気負いや重さなどなく気軽に楽しみながら読める理由なのかなと思います。

 妊娠という出来事をきっかけに自分自身の過去や現在と向き合い人として成長していくマキ(とさんちゃん)。ちまたにはいろんな妊娠や出産や育児にまつわる情報が溢れていますが、どこにも正解なんてなくて、妊婦の数だけそれぞれのマタニティライフがあり出産がある。もがきながらも自分なりに楽しみながら妊娠生活を送るマキの姿からは、そんな前向きなメッセージが感じられます。女性も女性でない人も、妊娠している人もいない人も、妊娠や出産に全く縁がない人も、ちょっぴり妊婦気分を追体験できる名作です。


:記事内の青字の部分は角田光代著『予定日はジミー・ペイジ』(新潮社、2010年8月)から引用させていただきました。


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by hitsujigusa | 2017-03-08 01:17 | 小説 | Trackback | Comments(0)

蜜のあわれ


【あらすじ】
 老小説家の上山と金魚の娘・赤子。金魚でありながら人間の娘に化けておしゃれをしたり街に出かけたり自由気ままに生を謳歌する赤子は、上山の過去を知る謎の幽霊・田村ゆり子と出会い、人間の世界の喜びも哀しみも経験して――。


 明日3月3日はひな祭りの日。ですが、江戸時代にひな祭りの日に一緒に金魚を飾った風習から金魚の日でもあるそうです。ということで、今回は金魚が主人公という異色の小説「蜜のあわれ」を取り上げます。
 明治・大正・昭和にわたって活躍した詩人であり小説家の室生犀星については、当ブログでは今までにも2度ピックアップしていますが、今回紹介する中編作品「蜜のあわれ」は犀星の代表作の一つです。2016年に二階堂ふみ主演で映画化されたこともあり、原作への注目度もさらに増しました。
 発表されたのは1959年。犀星が死没したのが1962年ですから晩年の作品です。そして、赤子に“おじさま”と呼ばれる老作家が作中で赤子を主人公とした小説を書いているというくだりがあることから、「蜜のあわれ」は犀星が自分自身を茶化したような遊び心溢れる作品になっています。
 しかし、何といってもこの小説の最大の特徴は小説の構成自体にあります。「蜜のあわれ」は最初から最後までカギカッコつきのセリフのみで物語が進むのです。たとえばこんなふうに。


「おじさま、お早うございます。」
「あ、お早う、好いご機嫌らしいね。」
「こんな好いお天気なのに、誰だって機嫌好くしていなきゃ悪いわ、おじさまも、さばさばしたお顔でいらっしゃる。」
「こんなに朝早くやって来て、またおねだりかね。どうも、あやしいな。」
「ううん、いや、ちがう。」
「じゃ何だ。言ってご覧。」
「あのね、このあいだね。あの、」
「うん。」
「このあいだね、小説の雑誌巻頭にあたいの絵をおかきになったでしょう。」
「あ、画いたよ、一疋いる金魚の絵をかいた。それがどうしたの。」
「あれね、とてもお上手だったわ、眼なんかぴちぴちしていて、とてもね。本物にそっくりだったわ。」



 終始説明文や情景描写はなく、登場人物たちの言葉のみが綴られます。この時代において小説の常識を覆すような前衛的な作品といえますが、あちらこちら行ったり来たり、とりとめもない会話が、日本語特有のリズムや豊かさをありありと描き出していて、日本語という言葉のおもしろさを味わうにはこれ以上ない小説ではないかと思います。

 そんな「蜜のあわれ」ですが、内容的には金魚なのになぜか人間の姿で普通に街に出かけたりする人間年齢17歳(金魚年齢は3歳)の少女・赤子を中心とした日常の話となっていて、そもそもが金魚が主人公なので日常といってもおかしな日常なのですが、だからといって大それた事件が起きるとかファンタジー的展開が繰り広げられるとかはなく、あくまで金魚と人間(と時々幽霊)の日常の話なのです。
 そんな中で特に印象的なのは赤子とおじさまが戯れる数々のシーン。金魚である赤子の身体に興味津々なおじさまの姿は、科学的な関心と言えなくもないですが、一方で文面では人間の少女のごとく言葉を発する赤子とのやりとりは、老人とうら若き乙女とのあやしい関係にも見えて、それこそが犀星が意図したことであったのだろうと思いますが、何ともふしぎな官能の世界を作り出しています。


「慍って飛びついて来たからぶん殴ってやった、けど、強くてこんなに尾っぽ食われちゃった。」
「痛むか、裂けたね。」
「だからおじさまの唾で、今夜継いでいただきたいわ、すじがあるから、そこにうまく唾を塗ってぺとぺとにして、継げば、わけなく継げるのよ。」
(中略)
「これは甚だ困難なしごとだ、ぺとついていて、まるでつまむ事は出来ないじゃないか。もっと、ひろげるんだ。」
「羞かしいわ、そこ、ひろげろなんて仰有ると、こまるわ。」
「なにが羞かしいんだ、そんな大きい年をしてさ。」
「だって、……」
「なにがだってなんだ、そんなに、すぼめていては、指先につまめないじゃないか。」
「おじさま。」
「何だ赧い顔をして。」
「そこに何があるか、ご存じないのね。」
「何って何さ?」
「そこはね、あのね、そこはあたいだちのね。」
「きみたちの。」
「あのほら、あのところなのよ、何て判らない方なんだろう。」
「あ、そうか、判った、それは失礼、しかし何も羞かしいことがないじゃないか、みんなが持っているものなんだし、僕にはちっとも、かんかくがないんだ。」



 室生犀星という人は詩人としては「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」を始めとした抒情的な詩で知られる人ですが、自伝的小説「性に目覚める頃」ではタイトルのとおり性に目覚める青年の心情を包み隠さず描いており、まだ新進の作家であった頃から性への関心をあけっぴろげに書いています。それからおよそ40年の月日が流れ、文壇の大家となった老年期においても性への興味は衰えるどころかますます深まり、まだ恥じらいがほの見えた初期作品と比べてもその率直さは官能の域を超えて、“性”こそが“生”そのものであるかのような情熱さえ感じさせます。


「おじさまはそんなに永い間生きていらっして、何一等怖かったの、一生持てあましたことは何なの。」
「僕自身の性慾のことだね、こいつのためには実に困り抜いた、こいつの附き纏うたところでは、月も山の景色もなかったね、人間の美しさばかりが眼に入って来て、それと自分とがつねに無関係だったことに、いよいよ美しいものと離れることが出来なかったね、やれるだけはやって見たがだめだった、何も貰えなかった、貰ったものは美しいものと無関係であったということだった、それがおじさんにたあいのない小説類を書かせたのだ、小説の中でおじさんはたくさんの愛人を持ち、たくさんの人を不倖にもしてみた。」

「だっておじさまのような、お年になっても、まだ、そんなに女が好きだなんていうのは、少し異常じゃないかしら。」
「人間は七十になっても、生きているあいだ、性慾も、感覚も豊富にあるもんなんだよ、それを正直に言い現わすか、匿しているかの違いがあるだけだ、もっとも、性器というものはつかわないと、しまいには、つかい物にならない悲劇に出会すけれど、だから生きたかったら、つかわなければならないんだ、何よりそれが恐ろしいんだ、おじさんもね、七十くらいのジジイを少年の時分に見ていて、あんな奴、もう半分くたばってやがると、蹶飛ばしてやりたいような気になって見ていたがね、それがさ、七十になってみると人間のみずみずしさに至っては、まるで驚いて自分を見直すくらいになっているんだ。」



 谷崎潤一郎や川端康成など、女性や女体への興味という意味でエロティシズムを描き出した作品は他にもありますが、犀星の場合、その関心の先は自分自身にも向けられていて、作中ではっきり述べているように、性欲こそが“生”であり、それが創作の源にもなっているのです。それはもう単なる性への興味という境界を超越して、“性”=“生”という美しいものに対する讃歌のようです。
 そして犀星の“生”への讃歌は人間にとどまらずありとあらゆる生命に向けられます。元々犀星はいきもの好きで、いきものを題材にした詩を数多く残していますが、中でも魚に対しては格別の扱いをしています。これは犀星が犀川という金沢の街中を流れる川のほとりで育ったことが大いに影響していると思われますが、幼年時代を血の繋がらない親の下で暮らした犀星にとって、川に暮らす魚たちは極めて身近な存在であったことでしょう。ゆえに、人間の言葉を話す金魚の赤子というキャラクターも何の違和感もなく、日常の延長線上で描けてしまうのです。

 「蜜のあわれ」の内容から犀星へと話が逸れてしまいましたが、この作品には犀星とは切っても切り離せない重要なモチーフ―魚と性―が織り込まれています。そのどちらも犀星が若かりし頃から描き続けてきたものであり、円熟期を迎えた晩年でもその筆致は円熟というよりもむしろ若者のようにピュアでまっすぐで、まさにみずみずしさに溢れています。一見金魚の娘と老作家のふれあいという突拍子もない物語ですが、その芯にあるのは生命という何よりも美しいものに対する純粋なる尊敬や憧れ。メスの金魚にいのちを与えて自由奔放に生を謳歌する魅力的な少女に変えてしまうイマジネーションも、犀星自身の最大限のいのちへの賛辞だったのではないかと想像します。

 めくるめく金魚と老作家の他愛もない日常の物語「蜜のあわれ」。今回取り上げたのは写真家のなかやまあきこさんの写真とのコラボレーション本ですが、そのほかにも最も手に入りやすい講談社文芸文庫から出版されている『蜜のあわれ/われはうたえどもやぶれかぶれ』や、犀星の魚にまつわる詩・短編・中編をまとめた『日本幻想文学集成32 蜜のあはれ』でも「蜜のあわれ」を読むことができます(Kindleの電子版も)。ぜひ一度手に取ってみてはいかがでしょうか。


:記事内の青字の部分は、室生犀星著、なかやまあきこ写真『蜜のあわれ』(小学館、2007年6月)から引用させていただきました。

【ブログ内関連記事】
室生犀星『室生犀星集 童子』―生と死の生々しさ 2013年5月30日
夜に読みたい小説・私的10撰 2014年9月16日  記事内で室生犀星『室生犀星集 童子』を取り上げています。
室生犀星『室生犀星詩集』―惜しみない愛の詩人 2015年7月31日


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by hitsujigusa | 2017-03-02 16:00 | 小説 | Trackback | Comments(0)

凍りついた香り (幻冬舎文庫)



【あらすじ】
 ある日、フリーライターの涼子の元に恋人で調香師の弘之が無水エタノールを飲んで自殺したという連絡が入る。弘之が死んで初めて、弟と母親が存在すること、スケートが上手いこと、数学の天才だったことなど、彼の隠された過去を涼子は知る。しかし、肝心の自殺した理由に関しては何一つわからない。弘之が高校生の頃、プラハで開催された数学コンテストに参加していたことを知った涼子は、弘之のことをもっと深く知るため、自ら死を選んだ手掛かりを探るため、プラハを訪れるが――。


 まだまだ夏の名残りが漂う今日この頃ですが、9月も最終盤となり、いよいよ秋本番の10月を迎えようとしています。その10月の最初の日、10月1日はさまざまな事物の記念日となっていますが、日本フレグランス協会が定めた香水の日でもあります。ということで、香水の日を記念して、香水が重要なモチーフとなる小川洋子さんの小説『凍りついた香り』を紹介します。
 『凍りついた香り』は恋人の自殺を発端に、主人公の女性が恋人の過去を訪ね、恋人が生きていた頃は知ることができなかった秘密に迫る物語です。小川さんの長編小説としてはさほど多くない恋愛を主題とした作品ですが、にもかかわらず生きている恋人との恋愛模様を描いたものではなく、死んだ恋人の足跡を追う、いわば死から始まる物語という点が、“失われしもの”を描く作家・小川洋子らしいところです。

 物語の語り手となるのはフリーライターの仕事をしている女性・涼子ですが、物語全編に渡って最も色濃く存在感を示しているのは凉子の自殺した恋人・弘之です。弘之は凉子や弘之の弟・彰、兄弟の母親など、人々の記憶や語られる思い出の中にしか登場しません。もちろん弘之本人の気持ちや想いが描写されることもありません。ですが、だからこそ、弘之を巡る人々の言葉から、弘之を失った悲しみ、なぜ自殺したのかという苦悩、それでも抑えきれない愛情が溢れんばかりに滲み出ていて、弘之という一人の人間が生きていたという実感、死んでしまったという取り返しのつかない空洞を、ありありと浮き上がらせています。
 そんな弘之を形作るキーワードとして登場するいくつかのモチーフが、物語の進行の上でも、彩りを添えるという点においても、重要な役割を果たします。
 最も重要なキーワードは何といってもタイトルにもなっている“香り”です。
 まず特筆すべきことは弘之が調香師であるということ。調香師という職業の人に、日常生活の中で私たちはなかなかお目にかかれません。普段どういった形で仕事をしているのか、業務内容はどういったものになるのか、調香師に関する多くの事実は雲に隠れています。“香り”そのものも実に不思議なものです。嗅覚は視覚や聴覚などと同等に大切な感覚の一つですが、そのわりに視覚や聴覚などと比べると扱いとしては低いように思われます。たとえば視覚なら失明は言うまでもなく、少し見えにくくなるだけでも人生を左右しかねない重大事ですし、聴覚にしても音が聞こえなくなる、聞こえにくくなるというのはやはり日常生活を脅かす出来事でしょう。ですが、嗅覚の場合、鼻が詰まったりなんかしてにおいが感じづらくなるなんてことは誰でも一度は経験することですし、多少鼻が利かないからといって大騒ぎする人もいないでしょう。そんなふうに嗅覚に関すること、においに鈍感であるとか敏感であるということは何となく軽視されているというか、その人を形成する上で大して重要視されない要素と言えます。そうした“香り”という非常に曖昧なものを専門的に取り扱う弘之という人物も、ミステリアスでつかみどころのない人間であるという雰囲気が、ほかの職業であるよりもいっそう強く感じられるのではないでしょうか。
 そして弘之を語る上でもう一つ欠かせないキーワードが、“数学”です。小川洋子作品で数学といって誰もが真っ先に思い浮かべるのは、『博士の愛した数式』でしょう。『凍りついた香り』はそれより5年ほど前の作品ですが、すでに『博士の愛した数式』の“博士”の面影が弘之からうかがえます。
 しかし、“博士”が年老いても数学を愛し数学と向き合い続けたのに対し、弘之は幼少時からたまたま天才的な数学の才能を持っていたために、母親に半ば強引にありとあらゆる数学の大会に出場させられたという隠したい過去を抱え、にもかかわらず日常のなにげない場面で突発的に数式が思い浮かんでしまうというジレンマもあり、“数学”は弘之にとって苦々しい存在として描かれます。
 一方で、自ら職業として選択した“香り”に関しても、異常なまでににおいに敏感でこだわりを持つがゆえに、涼子へのプレゼントとして自ら調香した香水“記憶の泉”を贈るといったポジティブな方向に働くこともあれば、キッチンの調味料のにおいが気になってそれぞれの位置を並び替えようとするといった強迫観念的な方向に働くこともあり、“香り”は弘之にとって必ずしも幸福を与えてくれるだけの存在とはなっていません。
 作中で弘之について病気や障害などの言及はありませんが、特定の物事に過剰にこだわる姿からはアスペルガー症候群的な印象を受けます。才能をうまく活かせれば自らの強みとすることもできる一方で、その度合いが極端すぎると心の負担となり自らを縛りつける鎖にもなる。“香り”と“数学”は単なる物語の小道具ではなく、弘之の死の鍵を握るモチーフとして、物語のそこここに色濃く影を落とします。

 ここまで読まれた方はどれだけ暗い話かと思われるかもしれませんが、確かに“死”を描いた小説なので決して明るい話ではないですが、かといって絶望を描いた話でもありません。むしろ主人公にとっての“救済”の物語です。
 弘之に関する描写の多さに比べ、主人公である涼子についての描写はそう多くありません(涼子自身が語り手なのだから当たり前ですが)。また、弘之に対する心情描写が主で、涼子が自分自身に対してどう思うとかどう感じるといった描写もあまりありません。涼子にとって弘之を失った世界も自分自身も手触りを失い、弘之に関すること以外は意味を持たないからです。ゆえに、何をしても何を見ても弘之と関連付けてしまうという場面がたびたび描かれます。


 橋に敷き詰められた石はどれも黒ずみ、すり減っていた。この石のどれかを、弘之も踏んだに違いない。プラハに来てからずっと、私はそうした思いから逃れることができないでいた。このドアノブをルーキーも握ったかもしれない。このテラスでコーヒーを飲みながら、広場の鳩を眺めたかもしれない。この通りで、カーブしてゆくトラムのブレーキ音を聞いたかもしれない。


 大切な人を突然失った虚無感が、決して声高ではなく、染み渡るような切なさを伴ったリアルな言葉で書かれ、ひしひしと迫ってきます。
 小川さんは著書『物語の役割』の中で、“物語”についてこう述べています。


 たとえば、非常に受け入れがたい困難な現実にぶつかったとき、人間はほとんど無意識のうちに自分の心の形に合うようにその現実をいろいろ変形させ、どうにかしてその現実を受け入れようとする。もうそこで一つの物語を作っているわけです。


 涼子もまた、弘之の死を受け入れ、乗り越え、現実を生きていくために、自分なりの物語を無意識に作ろうとします。そして、かつて弘之が訪れ、弘之にとって契機となる時間を過ごした街、プラハを訪れ、弘之の足跡をたどります。
 恋人の自殺の理由を探るストーリーというと、ショッキングで生々しい内容を想像される方もいるやもしれませんが、この作品は謎解き的要素もしっかり盛り込みつつ、あくまで一人の人間が自ら死を選ぶまでの心の軌跡、そして残された人々がその死を受け入れるまでの心の軌跡に寄り添った物語となっています。その一環として、涼子のロードムービーになっていることが大きなポイントかと思います。
 ロードムービーというと小説にしても映画にしてもいろんな名作がありますが、大半はハッピーというよりも、何かしらの問題を抱えて旅するという話が多いような気がします。実際に自分の足で未知の場所を旅するという体の動きの変化が、心の動きの変化にも繋がるのでしょうか。プラハを旅する涼子の心にも徐々に変化が訪れますが、読み手からすると美しいプラハの風景描写がこの小説の一つの見どころにもなっていて引きつけられます。


 突然彼が外を指差した。私ははっとして窓ガラスに顔を寄せた。いつの間にかヴルダヴァ川が姿をあらわしていた。幅の広い静かな流れが闇に溶け込み、その前方にはカレル橋が横たわり、さらにそれを見下ろすように、丘の頂きにプラハ城がそびえていた。
 橋と城は特別な光で照らされていた。派手な照明ではないのに、塔に施されたこまやかな飾りや、欄干に並ぶ聖像の輪郭がくっきりと浮かび上がって見えた。そこだけが闇も届かない宙の深いところから、すくい取られてきた風景のようだった。



 同じヨーロッパでも、パリでもなければロンドンでもなくなぜプラハなのか。その確かな理由は定かではありませんが、プラハという街が持つ特性――街の大きさ(大きすぎない)、人口(多すぎない)、知名度(それなりに有名)、歴史や文化(パリやロンドンに引けを取らない)、芸術性(音楽の都)――がこの物語にはちょうど好いサイズ感であり手触りであり温度だったのでしょう。特に印象的なのは静けさ。特別プラハの街が静かだとか描写されてるわけではないですが、中世から続く古い街並みから醸し出される空気感と、恋人の死と向き合う主人公の心の空虚さとがぴたりと合わさって、“死”を描く物語にふさわしい静けさが全てを包み込んでいるように思います。

 物語の最終盤、涼子は弘之が参加した数学コンテストにまつわる一つの真実にたどり着きますが、だからといって弘之の自殺の理由が暴かれるわけでも、涼子が劇的に救われるわけでもありません。しかし、涼子は自分の足でプラハを巡り、弘之の過去に触れたことで、ようやく弘之の死を実感として受け入れます。まさにそれが、小川さんの云う、“自分の物語を作る”ということで、その哀しく、切実であり、美しくもある道のりを描いたこの小説は、現実の“死”と向き合わなければならない全ての人に当てはまる普遍的な作品なんじゃないかと思います。


:記事内の引用文の青字の部分は、小川洋子著『凍りついた香り』(幻冬舎、2001年8月)から、緑字の部分は、小川洋子著『物語の役割』(筑摩書房、2007年2月)から引用させていただきました。

【ブログ内関連記事】
小川洋子『妊娠カレンダー』―感覚で味わう“雨” 2013年6月29日
小川洋子『アンネ・フランクの記憶』―アウシュヴィッツと零戦 2013年7月25日
小川洋子『博士の愛した数式』―フィクションと現実の邂逅 2014年3月14日
家族を描いた小説・私的10撰 2014年6月5日  記事内で小川洋子氏の『ミーナの行進』を取り上げています。
『それでも三月は、また』―2011年の記憶 2016年3月9日  記事内で取り上げている短編集に小川洋子氏の短編「夜泣き帽子」が収録されています。


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by hitsujigusa | 2016-09-30 02:27 | 小説 | Trackback | Comments(0)

宵山万華鏡 (集英社文庫)



【収録作】
「宵山姉妹」
「宵山金魚」
「宵山劇場」
「宵山回廊」
「宵山迷宮」
「宵山万華鏡」


 全国津々浦々で祭りが行われる日本の夏ですが、その中でも最も華やかで最も大規模なのは京都の祇園祭ではないでしょうか。7月1日から1か月かけて開催される祇園祭。祭りのメインは巨大な山鉾が街を練り歩く“山鉾巡行”です。しかし、そのメイン以上の盛り上がりを見せるのが、山鉾巡行の前夜に行われる“宵山”です(山鉾の飾りつけ自体は数日前から行われるので、宵山よりも前に、宵々々山、宵々山があり、その3日間全体を“宵山”と呼ぶこともあるようです)。祇園囃子が宵闇に流れ、夜店が立ち並び、山鉾に飾られた駒形提灯に明かりが灯る宵山は、祇園祭のシンボリックな光景となっています。
 そんな宵山を背景に、普通の人々がめくるめく非日常の世界に巻き込まれていく姿を描いた森見登美彦氏の連作短編集『宵山万華鏡』。16日の宵山を前に(実際は山鉾巡行は17日と24日の2回に分けて行われるので、それぞれ16日と23日の2度の宵山が存在します)、今回は『宵山万華鏡』を取り上げます。

 『宵山万華鏡』は連作集です。各編語り手が異なり、一編一編ストーリーは独立していますが、世界観は共有されていて、ある短編の登場キャラクターが別の短編に顔をのぞかせたり、同じモチーフが何度も現われたりと、6編で一つの作品ともなっています。

 華麗なる宵山異世界の幕開けを飾るのは「宵山姉妹」。京都の街中、衣棚町にあるバレエ教室に通う小学3年の妹と小学4年の姉。バレエ教室の帰り、好奇心旺盛な姉に引っ張られ宵山でにぎわう人ごみに足を踏み入れてしまった妹は、うっかり姉とはぐれてしまう。そんな彼女の前に、赤い浴衣を着た5人の少女が現れて――。
 連作集の冒頭を務める物語とあって、オーソドックスに、まずは宵山がいかなるものか、その雰囲気を伝える作品となっています。歩行者天国でごった返す人波の中、姉とはぐれて途方に暮れ不安に陥る少女の心情を丁寧に描写していて、かつて子どもだったことがある人なら誰でも共感できるでしょう。そして、お祭りという非日常の場で、ひとりぼっちでさまよう子どもがふと妖しい世界に誘われてしまう臨場感も、お祭りの独特の空気感を経験したことがある人ならば、何となく想像できるのではないでしょうか。

 2作目となる「宵山金魚」は、森見氏の真骨頂、奇想天外な喜劇。千葉の会社に勤める藤田は、京都に住む高校時代の同級生・乙川を訪ね、宵山でにぎわう京都にやって来る。乙川とともに宵山を見物する藤田だったが、ふとしたことから乙川とはぐれてしまう。当てずっぽうで歩いた末に人気のない駐車場にたどり着いた藤田は突然、”祇園祭司令部特別警務隊”なる謎の男たちに囲まれて――。
 祇園祭の境目のないミステリアスさ、非現実感を逆手にとったしっちゃかめっちゃかなドタバタ劇で、祇園祭にまつわるさまざまなルール、それを取り仕切る“祇園祭司令部”、その元締めである“宵山様”など、荒唐無稽なキャラクター、設定が次々に登場します。もちろん現実には存在しませんが、それが一概に絶対にありえないとも思えないのは、魑魅魍魎が跋扈する京都のなせる業なのかなという気がします。

 3作目の「宵山劇場」は「宵山金魚」の舞台裏を描いています。あらすじを書くと「宵山金魚」のネタばらしにもなってしまうので控えますが、連作ならではのおもしろさを味わえる作品ですね。

 4作目の「宵山回廊」は一転、シリアスな趣きの強い一編。四条烏丸の銀行に勤める千鶴は、宵山が行われる土曜日の午後、以前から親交のある画廊の主である柳とばったり会う。千鶴の叔父は画家で、柳は千鶴に叔父の元を訪ねてほしいというが、千鶴には15年前、叔父の娘である従妹が宵山の夜に姿を消したという苦い記憶があり――。
 15年前の宵山で行方不明になった少女、なぜか先のことを読んでいる叔父、謎めいた言葉を発する画廊主――。さまざまな謎と伏線が張り巡らされたミステリー色の濃い話ですが、宵山の幻想的な雰囲気と相まって、どこか怪談めいた、宵山の陰の一面をのぞける作品です。

 5作目の「宵山迷宮」は「宵山回廊」と対をなす作品。「宵山回廊」に登場した画廊主の柳の視点で宵山の一日が描かれます。しかし、その一日は果てしなく、なぜか翌日も翌々日も翌々々日も宵山の日が繰り返されて――という、宵山ループに陥る男の話。

 連作集のトリを飾るのは、表題作でもある「宵山万華鏡」。こちらは「宵山姉妹」の姉の目線で書かれ、赤い浴衣の少女や金魚入りの風船、宵山の日に集まるという孫太郎虫など、これまでの5編でたびたび登場してきた不思議なモチーフの謎が明かされ、宵山の正体が判明する解決編とでも言うべき一編です。宵山とは何なのか、宵山を動かしているのは誰なのか、森見氏の妄想空想が炸裂し、突拍子もなく広げられた大風呂敷が見事にたたまれます。

 宵山というのは祇園祭の中の数ある行事の一つなわけですが、単なる祭りとは言えない何かが秘められているような気がします。


 俺に馴染みのある祭りというのはせいぜい地元の神社の縁日ぐらいだが、そういうところでは祭りの中心がその神社であることはすぐ分かる。だが、この宵山というものは、どこに祭りの中心があるのか分からない。祇園祭というからには八坂神社が本拠地なのだと理屈では分かっても、縦横無尽に祭りが蔓延して、どちらの方角に八坂神社があるのかさえあやふやである。祭りがぼんやりと輝く液体のようにひたひたと広がって、街を呑みこんでしまっている。


 「宵山金魚」の語り手藤田は、初めて見た宵山をこう評しますが、言い得て妙。京都という街の中に宵山が在るというよりも、宵山の中に街が在るとでもいった方がいいような、途方もない得体の知れなさがあります。街中に突如として20余りの巨大な山鉾が現れ、その山鉾からはエキゾチックなタペストリーや絨毯が垂れ下がり、夜の帳の降下とともにどこからともなく祇園囃子が聞こえ始め、大量の提灯に灯が点る。まるで人が作り上げたとは思えない唐突な異世界の出現に、人も街も惑わされて呑みこまれていくのでしょうか。
 でも、そんな宵山だからこそ人々を惹きつけてやまないのも事実。森見氏はあとがきでこう述べています。


 その一方で、祭りというものは神秘的で、あの異世界に迷い込んだような感覚は私を惹きつける。見物する心構えをして出かけるよりも、日常の延長で何かの拍子に祭りへ迷い込んでしまうのが私の好みである。(中略)祇園祭の宵山はその最大のものである。
 祭りには怖ろしさと楽しさの両方があるけれども、その根っこは一つである。



 ただ陽気で明るいだけの祭りほどつまらないものはなく、なぜわざわざ面倒くさいことをするんだろうという奇妙さ、不気味さ、しばしば漂う不穏さというのが、全てないまぜになり混在して、祭りを祭りたらしめているんだろうと思います。
 ですが、普段祭りに参加する時、人々は祭りに潜む怖ろしさに気づきません。いいえ、なんとなく気づいてはいても、祭りという非日常の場の熱狂、興奮に紛れて、見えにくくなってしまうのです。しかし、『宵山万華鏡』の人々はひょんなことからその見えにくい境界線を越えて、あちらの世界へ足を踏み入れてしまいます。普通の何でもない日ならそうはならなかったかもしれません。でも、宵山というこの世のものならざる舞台が、日常と非日常、現実と幻想の境目を曖昧にしてしまうのでしょう。
 そうして、ある人は宵山に魅了されたまま永遠に宵山にとらわれ、ある人は宵山の魔性的な誘惑から逃れる。祭りという非日常であるべきものが日常になってしまうことの怖ろしさと哀しさが全体を通して底流していて、それが祇園祭の宵山という日本を代表する超有名イベントをテーマにしつつも、祇園祭や京都を声高に喧伝するミーハーな感じが全くなく、むしろ常に背中にひんやりとしたものを感じさせるゆえんなのでしょう。そういった意味ではこの連作短編集は怪談としても読めるし、ミステリーでもあるし、阿呆阿呆しさ満載の喜劇でもあるという、まさに筒を回転させるたびに色を変え形を変え、さまざまな表情を見せる万華鏡のような小説です。

 日本の祭りの本質とも言えるいろんな要素を凝縮した宵山。そんな宵山の魅力も怖さも描き切った『宵山万華鏡』を読めば、宵山に行きたくなること間違いなし……ですが、行けなくともこの小説を読むだけでも、宵山の雰囲気に浸れること間違いなしです。ちなみに、こちらの記事でも『宵山万華鏡』を少し取り上げてますので、書いてる内容はほぼ重なりますが、お時間があればご参考下さい。


注:記事内の青字の部分は、森見登美彦著『宵山万華鏡』(集英社、2012年6月)から引用させていただきました。

【ブログ内関連記事】
夏に読みたい小説・私的10撰 2014年7月8日 記事内で『宵山万華鏡』を取り上げています。
夜に読みたい小説・私的10撰 2014年9月16日 記事内で森見登美彦氏の『きつねのはなし』を取り上げています。


宵山万華鏡 (集英社文庫)
森見 登美彦
集英社 (2012-06-26)
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by hitsujigusa | 2016-07-14 16:05 | 小説 | Trackback | Comments(0)

それでも三月は、また



【収録作】
谷川俊太郎「言葉」
多和田葉子「不死の島」
重松清「おまじない」
小川洋子「夜泣き帽子」
川上弘美「神様2011」
川上未映子「三月の毛糸」
いしいしんじ「ルル」
J.D.マクラッチー「一年後」
池澤夏樹「美しい祖母の聖書」
角田光代「ピース」
古川日出男「十六年後に泊まる」
明川哲也「箱のはなし」
バリー・ユアグロー「漁師の小舟で見た夢」
佐伯一麦「日和山」
阿部和重「RIDE ON TIME」
村上龍「ユーカリの小さな葉」
デイヴィッド・ピース「惨事のあと、惨事のまえ」



 2011年3月11日に発生した大地震と津波、それに伴う東日本大震災、そして福島第一原発の事故から5年が経とうとしています。今回取り上げるのは2012年の2月に出版された、17人の小説家や詩人が書いた3.11にまつわる小説や詩を収録した作品集『それでも三月は、また』です。
 3.11にまつわる、といってもその中身はさまざま。3.11に直面した人間の心情をリアルに描いたものもあれば、ファンタジー仕立てもあり、衝撃的なSFもあり、アンソロジーならではの醍醐味が存分に味わえます。

 アンソロジーの幕を開けるのは谷川俊太郎さんの詩「言葉」。絶望的な状況においても立ち上がる“言葉”というものの強靭さを、非常にシンプルに短く、しかし説得力を持って伝えています。まさにこの詩自体が“言葉”が持つ力を体現しています。
 多和田葉子さんの「不死の島」は全17作品中、最も強烈で過激的な作品といえます。大震災と原発事故から6年経った日本、国際社会との交流は断絶し、日本政府は民営化され、文明は退化し、原発事故当時被爆した老人たちは異常な長命を得て死ねずにいる。そんな設定の下で語られる3.11以後の日本はあまりにも極端で、非現実的で、ありえなさすぎるように一見思えますが、その荒唐無稽さが必ずしも絵空事ではなくて、こういう日本がもしかしたらありえたかもしれないなと思えてしまうくらい、あの当時の日本は異常事態でどんな最悪なシナリオも考えられる状況でした。約5年経った今、この短編を通して当時を振り返ると、いろんなことを考えさせられます。
 一方、重松清さんの「おまじない」はハートウォーミングな作風が魅力的な重松さんらしい心温まる物語となっています。小学4年生の頃東北の海辺の町に住んでいた主人公の戸惑い、葛藤、そして希望のドラマをぎゅっと凝縮していて、ヒューマンドラマの名手である重松さんの真骨頂です。
 川上弘美さんの「神様2011」は、川上さんのデビュー作である「神様」をアレンジした異色の作品。「神様」は主人公が3つ隣りの部屋に引っ越してきたくまと散歩に行くという現実と非現実のあいだを漂うようなふしぎな世界観の作品ですが、「神様2011」はその基本設定は変わらず、ただ3.11以後という新設定が加えられています。なのでストーリーの大まかな展開は全く同じながらも、その中に“除染”、“被爆量”、“セシウム”といった単語がところどころに登場し、ファンタジックな雰囲気とファンタジックとは真逆の、あまりにも現実的すぎる背景設定とのギャップが、元となった「神様」とはまた違う奇妙な空気感を生み出しています。
 ファンタジックといえばいしいしんじさんの「ルル」もまた独特のファンタジーとなっています。犬の“ルル”の視点で被災した児童養護施設の子どもたちの姿を描いているのですが、あっと驚かされるしかけもあって、単純な感動話でもない、シンプルなファンタジーでもない、異彩を放つ作品です。
 古川日出男さんの「十六年後に泊まる」は2011年の5月に結婚16周年を迎えた福島出身の主人公が、16年前に結婚式を挙げた地元のホテルに宿泊し、半壊した実家で結婚記念日を祝うというある一日を描いた話ですが、長らく福島から離れていた主人公の故郷に対する複雑な感情と、震災・原発事故直後の福島の姿を淡々と、かつ、優しい目線で綴っています。
 明川哲也さんの「箱のはなし」は箱不足が深刻化し、箱の養殖方法が発明され、箱の増産計画が国策となり、国民一人一人が義務として箱を育てなければならなくなった日本の話。一見3.11と箱と何の関係もなさそうですが、箱があることが当たり前だった世界の変貌ぶりと、3.11以前、以後の日本の変貌ぶりとが重なって、シュールながら悲哀を漂わせる作品です。
 佐伯一麦さんの「日和山」は避難所暮らしをする男と被災を免れた友人との交流を描いていて、3.11からさほど日が経っていない被災地を舞台にしていることもあって被害に遭った当事者である人々が被災したという実感に乏しいままでいる姿にリアリティがあり、印象的です。

 17作の中から特に印象的だったものをピックアップして紹介しましたが、全体を通して感じることは5年という年月の着実な流れです。この本が出版されたのは震災から約1年後の2012年2月。17作の中にはこの作品集のための書き下ろしもあれば、すでに文芸誌に発表済みのものもありますが、ほぼ全てが2011年に執筆されたものということになります。私は出版されてからわりとすぐにこの本を読みましたが、5年が経つ今改めて読み返すと、やはり印象は以前と違っています。
 震災・原発事故が起きたまさにその当年に書かれたからこその、戸惑い、怒り、哀しみ、驚きなど、3.11の現実を目の当たりにした作家たちのありのままの心情が作品には表れています。そこには作家・創作者であるという以前に、未曾有の出来事に相対した一人の人間としての3.11との向き合い方が反映されているように思います。
 約5年が経った今、17人の作家たちが各々全く同じ作品をもう一度書くとしても、やはり同じものにはならないでしょう。5年という歳月は短いようで長いですし、被災地の惨状をテレビや現場で目にした2011年の衝撃や動揺も2016年になれば薄れるのが自然です。それは読者も同じこと。この作品集を2012年に読むのと、2016年に読むの、さらに2021年に読むのとでは、抱く感想も変わってくるでしょう。
 だからこそ、この本に限らず、3.11直後に書かれた“3.11文学”を時間を置いて読み返すことには、いろんな意味で良い作用があるように思います。作用などという言葉を使うと語弊があるかもしれませんが、自らの中の記憶を呼び起こすこと、当時の自分が抱いたリアルな感情を蘇らせること、3.11を自分のそばに引き寄せること。かつて関東大震災に遭った文豪たちが体験を小説や随筆に書き残し、現代にその記憶を引き継いでいるように、3.11を経験した現代の作家たちも自らの記憶を文章化することで、2011年を生きていた人々にもう一度3.11を思い出させてくれるのみならず、3.11を知らない未来の世代にも、3.11にまつわる生々しい手づかみの感情を伝えてくれるのではないかと思います。
 それは二つとして同じもののない個人個人の経験や感情を一個一個書き記した記録でもあり、テレビの震災特集番組や、新聞の記事や、ノンフィクションの記事などでは取りこぼされてしまうものを丁寧にすくい取っています。言葉にしなければ消えてしまうようなささやかな記憶や感情を物語にすることこそが文学なんだと、この本は改めて教えてくれます。

 5年経つから、と数字で区切ることに意味はないのかもしれませんが、この節目に未読の方はもちろん、既読の方にももう一度読んでほしい作品集です。


それでも三月は、また
谷川 俊太郎 多和田 葉子 重松 清 小川 洋子 川上 弘美 川上 未映子 いしい しんじ J.D・マクラッチー 池澤 夏樹 角田 光代 古川 日出男 明川 哲也 バリー・ユアグロー 佐伯 一麦 阿部 和重 村上 龍 デイヴィッド・ピース
講談社
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by hitsujigusa | 2016-03-09 22:59 | 小説 | Trackback | Comments(0)

海の鳥・空の魚 (角川文庫)


【収録作】
「グレイの層」
「指」
「明るい雨空」
「東京のフラニー」
「涼風」
「クレバス」
「ほおずきの花束」
「金曜日のトマトスープ」
「天高く」
「秋の空」
「月の砂漠」
「ポケットの中」
「アミュレット」
「あたたかい硬貨」
「カミン・サイト」
「柿の木坂の雨傘」
「普通のふたり」
「星降る夜に」
「横顔」
「卒業」


 9月20日は空の日だそうです。ということで、それに合わせて今回はタイトルに“空”が入る、鷺沢萠(めぐむ)さんの短編集『海の鳥・空の魚』をフィーチャーします。

 作者の鷺沢萠さんは大学1年生だった1987年に「川べりの道」で文學界新人賞を受賞してデビュー。その後、3度の芥川賞候補、2度の三島由紀夫賞候補などを経て、1992年「駆ける少年」で泉鏡花文学賞を受賞。精力的に創作活動をつづけ、複数の作品が映画化されるなど活躍しましたが、2004年4月11日に自殺、35歳の若さで亡くなられました。
 亡くなってからそれなりに時間が経っているということもあり、また、現在は著書の多くが絶版になっているということもあり、最近では文学好き以外で鷺沢さんの名を知っている方はあまりいないかもしれません。かくいう私もリアルタイムでは鷺沢さんのことを知らず、亡くなってから鷺沢さんの著書を読むようになった遅れてきたファンです。ですが、月日の隙間に埋もれてしまうにはあまりにも残念な、類い稀な文章センスと繊細な感性を持った小説家であり、そういった意味合いも込めて、鷺沢さんの小説を紹介したいと思います。

 『海の鳥・空の魚』は1987年から1989年にかけて『月刊カドカワ』に連載された作品を1冊にまとめた短編集。収録された20の短編はどれも10ページほどの短さで、普通の人々の人生のささやかな一場面を切り取った短編群となっています。
 鷺沢さんはこの本のあとがきでこう記しています。


 どんな人にも光を放つ一瞬がある。その一瞬のためだけに、そのあとの長い長い時間をただただ過ごしていくこともできるような。(中略)うず高く積まれてゆく時間のひとコマひとコマ、その全てを最高のものに仕立てあげるのはとても難しいことだ。難しいことだから、「うまくいった一瞬」が大切なものになるのではないだろうか。
 神様は海には魚を、空には鳥を、それぞれそこにあるべきものとして創られたそうだが、そのとき何かの手違いで、海に放り投げられた鳥、空に飛びたたされた魚がいたかも知れない。エラを持たぬ鳥も羽根を持たぬ魚も、間違った場所で喘ぎながらも、結構生きながらえていっただろう。



 海を泳ぐ鳥、空を飛ぶ魚のように、自分の居場所に居心地の悪さを感じる人々、生きにくさを感じる人々が、この短編集の主人公たちです。そんなふうに言うとちょっと特別なように感じられるかもしれませんが、どの主人公もどこにでもいる普通の人々です。意識的にと思われますが、見た目についての描写もほとんどなくて、風貌も喋り方もさして特徴のない、ごく平凡な人々ばかりです。
 主人公たちは連載当時の鷺沢さんと同世代の学生や若者が多く、若さゆえの屈折や日常への憂鬱さを抱えつつも、その日常を破壊しようとするほどの強い願望もアグレッシブさもなく、普通の日常を受け入れています。物語の中では劇的なドラマも事件も起きません。ただ、何かが起こる前の段階の瞬間を描いていて、小さな光がきらめくシーンを鮮やかに映し取っています。
 「指」という話では、ガソリンスタンドで働く主人公・喜一のかすかな心の揺れを、“指”を通して描き出します。黒く汚れた自分自身の指、同僚の悦子のしもやけで腫れた指、スタンドにやって来た赤いアウディの助手席に乗った女のしなやかで長い指。決して特別な風景ではなく、喜一にとっても見慣れた仕事場の風景。しかし、その中で目にした女の美しい指が、喜一の心にさざ波を立てます。だからといって喜一と客の女とのあいだに何かが起こるわけでもなく、ただ店員と客として一瞬交差するだけなのですが、何でもない瞬間が忘れられない瞬間に変わる境目を印象的に描写しています。

 そんなふうにこの作品集の中で繰り広げられるドラマはありふれた日常の連なりで、ストーリー的にも目新しさやあっと言わせられるような驚きの展開が用意されているわけではありません。文章的にも鷺沢さんはなにげない風景を模写するスケッチのような軽やかさで、主人公たちの心模様や風景描写を淡々と綴っていきます。にもかかわらず、それらの景色は確かな輝きを湛えた光景として鮮やかに目に映ります。それはどの物語にも、人生を肯定する明るさが通底しているからではないかと思います。
 「クレバス」という短編では、災難続きの主人公がかつて知人から言われた言葉としてこんなセリフが登場します。


 ――人生には不運な時期があるよ。雪山のクレバスにはまってしまうみたいなね。そういう時はなるべく首を縮めて、時間が上を通り過ぎるのを注意深く待つのさ。次に首を伸ばしたときには、きっと素敵な眺めを見られるものだよ。


 一部の例外を除いて、ほぼ全ての作品にこの一文が伝える“希望”がベースにあって、退屈な日常や鬱屈した感情を描いていても重々しさはなく、心をふっと軽くしてくれる気持ちの良さに繋がっています。
 そして、それは主人公たちの姿にも通じていて、彼らは皆やりきれない思いを抱えたり捨て鉢な態度をとったりと、形は違えどちょっとした不幸せや不運に見舞われています。ですが、絶望感みたいなものは感じられず、むしろどこか明るささえ漂っています。人生なんてこんなもんだという諦めも多少なりともあるかもしれませんが、それ以上になにげないことも自分の支えにして一生懸命生きていこうとする前向きさの方が強いような気がします。一生懸命というと熱い感じもしますが、言い換えれば自分の日常・人生を自分の足でちゃんと歩いていこうとする強さでしょうか。一見普通のことですが、それができない人も意外に多いもの。代わり映えのしない毎日に時々投げやりになったり嫌気が差したりすることもあるけれども、それでも人生を投げ捨てることなく、普通の日常を普通に送る。そういう普通のことを何でもない顔でできることが、実は何よりも立派ですごいことなんじゃないかなと思います。
 20の短編の主人公たちはそれぞれ日常にピリリと刺激を与えるドラマに出くわします。世の中には些細な出来事をきっかけに人生を大きく転換させる人もいるでしょうが、彼らはたぶん約10ページのドラマが幕を閉じた後もそれまでどおりの日常を歩いていくのだろうという気がします。それは消極的なのではなく、“普通”であることを大切にできるということ。個性的でも華やかでもないけれど、紛れもなく世界に一つだけのかけがけのない自分の人生を生きるということだと思います。だからこそ、他人から見れば何でもないささやかな一瞬がとてつもなく嬉しかったり勇気づけられたりするのでしょう。そんな“普通”の人々のことを、私はとてもいとおしく感じます。そして彼らは小説の中の住人ではなく、この世界のいろんなところにいます。それは家族であり、友人であり、同僚であり、近所の人々であり、見知らぬ他人であり、自分自身でもあります。

 自分にも似た“普通の人”の姿を20の物語の中に見つけて、なんとなく救われたり元気づけられたり、自分自身をも肯定してもらえているような気分になったり。こんな自分でもいいんだと思わせてくれる、読んだあとに心がほどける短編集です。残念ながらこの本も絶版になっていて新品では手に入りませんが、電子書籍で読むこともできますので、ぜひ機会があれば読んでみてください。


:記事内の引用部分は鷺沢萠『海の鳥・空の魚』(角川書店、1992年11月)から引用させていただきました。



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by hitsujigusa | 2015-09-19 00:34 | 小説 | Trackback | Comments(0)

旅のラゴス (新潮文庫)



 夏もいよいよ終わりに近づき、徐々に秋の足音が聞こえ始めている今日この頃ですが、8月30日は冒険家の日だそうです。なぜ8月3日が冒険家の日かというと、1965年に同志社大学の南米アンデス・アマゾン遠征隊がアマゾン川の源流から130キロを世界で初めてボートで川下りし、1989年に冒険家の堀江謙一さんが小型ヨットで太平洋の単独往復を達成したのが8月30日だからということで、誰が決めたのかはよく分かりませんがこの日が冒険家の日になったということです。
 そんな記念日にちなんで、今回は冒険を描いた小説を特集します。ジャンルとしての“冒険小説”は、『トム・ソーヤーの冒険』や『宝島』のような、危険を犯して海やら秘境やらを冒険するといったものですが、今回取り上げるのは幅広い意味での冒険を描いた小説なので、いわゆる冒険小説とは違うものもありますが、それはそれ、これはこれとしてご容赦ください。



 まずは定番といっても過言ではない、冒険を描いた小説3冊です。


羊をめぐる冒険(上) (講談社文庫)

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【あらすじ】
 1978年7月、妻が家を出て行き、大学時代に付き合っていた女の子が交通事故で死んだ。8月、「僕」は21歳の耳専門のモデルの女の子と知り合い、新しいガールフレンドとなった。そして9月、仕事を休んでガールフレンドとベッドの中にいると、彼女は「あと10分で大事な電話がかかってくる」と言い、またそれは羊に関係することだとも言う。そんなある日、「僕」が経営する広告代理店にある右翼の大物の秘書が訪れて――。

 国際的な人気作家・村上春樹さんの『羊をめぐる冒険』。言わずもがなの名作ですが、村上さんのデビュー作『風の歌を聴け』、デビュー2作目の『1973年のピンボール』に続く“鼠三部作”といわれるシリーズの完結編です。
 ストーリーについて文章で説明するのは難しく、また、私のつたない言葉で説明しきれそうもないので省きますが、タイトルのとおり、ある謎めいた羊と、主人公の旧友“鼠”を追って主に北海道を冒険します。日本を舞台にしているとは思えないような村上さん特有のドライでミステリアスな空気感をあますことなく楽しめる作品です。なお、村上作品には他にも『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』、『1Q84』といった冒険小説と言える作品があり、どの冒険もそれぞれ唯一無二の世界観で、ほかにはない感覚を味わえますね。


深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

【あらすじ】
 26歳の「私」はある日、インドのデリーからイギリスのロンドンまで乗り合いバスだけで旅することを思い立ち、日本を飛び出した。まずは飛行機で香港に立ち寄った「私」だったが、混沌とする香港に魅せられ思いがけず長居をしてしまい――。

 ノンフィクション作家、沢木耕太郎さんの代表作『深夜特急』。実際にバックパッカーとして放浪の旅をした沢木さんの実体験に基づく小説で、新潮文庫から全6冊で出ています。
 この作品に関してはほかの記事にも書きましたのでこちらもご参考いただきたいのですが、なんといっても東アジアからユーラシア大陸を横断してヨーロッパの端っこへという旅が単なる旅行、観光などではなくて、THEバックパッカーといった感じの旅らしい旅をしていて、臨場感たっぷりで自分がその国のその地域に本当に立っているような感覚に陥ります。旅の中で主人公は怪しいホテルに泊まったり、カジノでギャンブルにのめり込んだりとかなり危ない経験もしていて、秘境を旅したりというのとは違いますが、まさに冒険。飛行機や鉄道を基本的に使わず、バスでゆっくりゆっくり地を這うような形で西に向かっていくのもさらに冒険感を高めていますね。


旅のラゴス (新潮文庫)

旅のラゴス (新潮文庫)

【あらすじ】
 高度な文明を失った代わりに人間たちが超能力を獲得した世界。その世界で何かを求めて旅をする男・ラゴスはある日、“集団転移”をしようとするグループと出会って――。

【収録作】
「集団転移」
「解放された男」
「顔」
「壁抜け芸人」
「たまご道」
「銀鉱」
「着地点」
「王国への道」
「赤い蝶」
「顎」
「奴隷商人」
「氷の女王」

 日本を代表するSF作家・筒井康隆さんの連作長編『旅のラゴス』。高度な科学はないものの(かつてはあったことを匂わせる)、超能力が発達しているという設定の世界を主人公が放浪する物語です。収録作は1作1作が独立したエピソードとなっているのですが、それらを連続して繋げて読むことによって壮大な世界が浮かび上がってくるという仕組みになっています。異世界ファンタジーっぽい雰囲気もあるのですが、あらすじにも書いたように集団転移(集団で同じ場所のイメージを強く思い浮かべることで集団ごとテレポーテーションする移動方法)のような科学的な感じもあって、SF作家の筒井さんならではのSFとファンタジーがバランス良く混じり合ったような空気感が魅力的です。雰囲気的には宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』に似た感じもあって、退廃的な世界観、失われた科学文明と、一方で進化した超現実的かつ一種独特な科学といったモチーフが好きな人にはたまらない作品ではないかなと思います。
 ちなみにこの『旅のラゴス』は筒井さんの作品の中ではそんなに有名ではなかったのですが、これといって特別な理由もないのに、なぜか2014年から今年にかけて売れ行きが急激に伸びて、今まで毎年3000~4000冊くらいだったのがこの1年ほどで10万冊も増刷となったということがちょっとした話題になっていて、筒井さんの新たな代表作として浸透しつつあると言えるのかもしれません。この作品に関してはこちらの記事でもピックアップしていますので、ぜひご覧ください。


 続いては子どもを主人公にした冒険ファンタジー4作です。


裏庭 (新潮文庫)

裏庭 (新潮文庫)

【あらすじ】
 昔はイギリス人の別荘だった荒れ放題の洋館、バーンズ屋敷。今は近所の子どもたちの格好の遊び場となっている。6年前に双子の弟を亡くした少女・照美は、弟が亡くなって以来久しくバーンズ屋敷に近づいていなかったが、友達の綾子のおじいちゃんにかつてのバーンズ屋敷の話―住んでいた姉妹や秘密の裏庭のこと―を聞き、ある日バーンズ屋敷を訪れる。そして、綾子のおじいちゃんが“裏庭”の入り口だと話したホールに掛かった大鏡に照美が触れると、突然「フーアーユー」という声が響き――。

 梨木香歩さんの『裏庭』は、古い洋館に秘められた謎の“裏庭”を巡って、孤独を抱えた少女が冒険するファンタジーです。『秘密の花園』や『トムは真夜中の庭で』に代表されるように、“庭”は児童文学に付き物のシンボリックで重要なモチーフですが、この『裏庭』も庭文学の傑作と言えます。
 魔法やアクションなどの登場する派手な冒険物語ではありませんが、主人公の少女が異世界に迷い込むことで自分自身の心の傷と向き合い、乗り越えていくさまが繊細に書かれていて、児童文学ではありますが子どものみならず大人にとっても奥深い作品となっています。また、照美の心の世界だけではなく、照美と母、照美の母と祖母、照美と綾子のおじいちゃん、綾子のおじいちゃんとバーンズ屋敷に住んでいたイギリス人の姉妹、そして照美と亡くなった弟など、多様な人間関係が場所や時を超えてダイナミックに描かれていて、一人の少女の成長物語にとどまらない広がりを見せています。思春期の少女が自分の心を真正面から見つめるというものすごく過酷な体験を、秘密の裏庭への旅という形で鮮やかに描き出した傑作ファンタジーです。


扉のむこうの物語 (名作の森)

扉のむこうの物語 (名作の森)

【あらすじ】
 母親のいない小学6年生の少年・行也はある日父親が勤務する小学校を訪れる。暇を持て余した行也はひとりでぶらりと物置に入るが、そこでアフロヘアの風変わりな女の人と出会う。女の人はこの小学校の卒業生だと言い、二人は物置にあったひらがな五十音表を使って、言葉を作る遊びを始める。すると突然不思議な扉が現れ、二人が扉を開けるとそこは現実とは違うちょっとおかしな世界で――。

 児童文学作家・岡田淳さんの『扉のむこうの物語』。ひまつぶしの言葉遊びをきっかけに不思議な異世界に導かれてしまう男の子の話で、上述した『裏庭』が少女の内界を巡る物語だったのとは対照的に、こちらは少年の成長を取り上げていて、よりユーモア色が濃くなっています。
 何より魅力的なのが冒険の筋立て。行也たちが異世界に足を踏み入れるきっかけとなるのがひらがなの五十音表を使ったゲームで、これは一度使ったひらがなはもう使えず、残ったひらがなで新たな言葉を作るというルール。ここで行也とアフロヘアのおばさんが作った言葉が後々異世界で重要な役割を果たすのですが、文字や言葉が物語を生むという言葉のおもしろさを体現するようなストーリーになっていて、文学の醍醐味を存分に味わえる作品になっています。そういったアイテムづかいがとても秀逸で、それだけでもワクワクドキドキするのですが、物語のところどころにクラシック音楽が散りばめられていて色を添えていたり、異世界では人間を分類するというシステムがあったりと、子ども向けにしてはけっこう渋いモチーフが使われたりシビアな不条理さが描かれていたりして、考えさせられる部分も多く、大人でも十分楽しめる作品だと思います。


これは王国のかぎ (中公文庫)

これは王国のかぎ (中公文庫)

【あらすじ】
 中学3年生の上田ひろみは15歳の誕生日に失恋。泣き疲れて眠り、目覚めるとそこは自分の部屋ではなくアラビアンナイトの世界だった。そしてひろみが出会ったターバン姿の青年はひろみのことを磨神族“ジン”だと言う。こうしてひろみはなぜか不思議な力を持つジンとして異世界を旅することになってしまい――。

 児童文学作家、ファンタジー作家である荻原規子さんの『これは王国のかぎ』は、アラビアンナイトの世界を舞台にしたファンタジー作品。日本神話を題材にした「勾玉三部作」や中世ヨーロッパ風の異世界を舞台にした「西の善き魔女シリーズ」など、多くのシリーズ作品を手がけている荻原さんですが、この作品は1冊で完結する話で、また、主人公のひろみのあっけらかんとしたキャラクターや陽気でユニークな世界造形なども手伝って、荻原さんの小説を読んだことがない方にも手に取りやすい作品ではないかと思います。
 物語の世界観的にも魔法が生きるアラブ世界でイメージしやすいですし、ファンタジーのセオリーを踏襲した内容なのですいすいと読み進められます。また、思春期の少女を主人公にした小説に長けた荻原さんらしく、この作品も少女小説や少女漫画っぽい雰囲気があり、ほのかな恋愛も描かれていたりして、そういった感じの物語が好きな人も大いに楽しめます。ちなみに物語としては完全に別なものの、同じく上田ひろみが主人公の『樹上のゆりかご』という作品もあり、ファンタジー要素は皆無ですが学園の謎を巡るミステリーとなっていて、こちらもおもしろいです。


七夜物語(上) (朝日文庫)

七夜物語(上) (朝日文庫)

【あらすじ】
 母とふたり暮らしのさよは小学4年生。ある日、さよは町の図書館で『七夜物語』というタイトルの本を見つける。なぜか『七夜物語』に惹かれるさよだったが、ある夜、ひょんなことから同級生の灰田くんと一緒に近所の高校に忍び込むことに。そこで出会ったのは人間ほどもある大きなネズミで――。

 川上弘美さんの『七夜物語』。普段は大人向けの小説を書いている川上さんが初めて手掛けた本格的な児童文学です。ひょんなことから奇妙で不気味な夜の異世界に迷い込んでしまった女の子と男の子の冒険を描いていて、子どもにとっての教訓的な部分もありつつ、それを押しつけるのではなく、子ども自身の心から生まれる怒りや喜び、悲しみといった感情に基づいて描写していて、かつて子どもだった大人にとっても身に沁みるような作品となっています。『七夜物語』に関しては、当ブログの夜に読みたい小説・私的10撰という記事でも取り上げましたので、ぜひそちらもお読みください。


 さて、最後は冒険を描いた海外の小説3冊で締めくくります。


クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))

クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))

【あらすじ】
 退屈な日々を送る12歳の少女クローディアは家出をすることに決め、パートナーとして弟のジェイミーを連れてニューヨークのメトロポリタン美術館を家出先に選ぶ。クローディアとジェイミーは美術館に隠れ住んでいることがばれないように閉館時間はバスルームに潜んだり、開館中は子どもたちのグループに紛れて展示物を観賞したり、夜はアンティーク・ベッドで眠ったり、家出を満喫。そんな時、作者の分からない天使の大理石像が新しい展示物として美術館にやってきて――。

 アメリカを代表する児童文学作家、E・L・カニグズバーグさんの代表作『クローディアの秘密』。姉弟が世界最大級の美術館であるメトロポリタン美術館にこっそり住むという想像しただけでもワクワクする物語で、美術館で生活するというリアリティにぐいぐい引き込まれます。
 作者のカニグズバーグさんは大人から見た子どもではなく、本当の意味で子どもらしい子どもを描く作家として有名で、この『クローディアの秘密』でも主人公たちは自由奔放、はた目から見たら勝手に美術館に住んでしまうとんでもない悪ガキとも言えますが、逆に言えば自らの力で人生を切り拓いていこうというたくましさに満ちていて、読んでいて痛快です。そんな子どもたちがミケランジェロ作と疑われる天使像の謎に迫っていくのですが、自分の頭で考え自分の身体で行動することによって、揺るぎない“自分”というものを獲得していくさまを鮮やかに描いています。家出というのが子どもにとって単なる嫌悪する日常からの忌避じゃなくて、自分自身を発見するために欠かせないイニシエーションなんだというのを実感させられる作品です。


闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))

【あらすじ】
 エクーメン連合の使節ゲンリー・アイは外交のため両性具有の人々が住む惑星ゲセンを訪れる。ゲセンには複数の国があるが、アイはまずその中の一つカルハイド王国で活動し始め、国王と接触しようとするが、感触は思わしくない。そのため今度はカルハイドの隣国であるオルゴレインに場所を移し、順調に外交を進めるが、国政の争いに巻き込まれ囚われの身に。そんなアイを助けてくれたのはかつてカルハイドの宰相だったエストラーベンで――。

 「ゲド戦記シリーズ」などファンタジー作品でも知られるSF作家アーシュラ・K・ル=グウィンさんの代表作の一つ『闇の左手』。同じ世界観の下に書かれた「ハイニッシュ・サイクルシリーズ」の1作ですが、単独で完結している話なので、ほかの作品を読まずとも理解できます。
 文化人類学に基づいた作品を多く書いているル=グウィンさんですが、『闇の左手』でも異文化交流の難しさが徹底的に掘り下げられます。舞台となる惑星ゲセンの特徴は何といっても人々が皆両性具有(男性でもあり女性でもある)ということで、主人公の男性アイは戸惑いつつも、同盟を結ぶため外交を続ける。物語のハイライトは更生施設から逃亡したアイとエストラーベンが追っ手に見つからないように大氷原を横断して逃避行するところ。一歩間違ったら即死に繋がりかねないという極寒の地のシーンが長々と続くのですが、文化や習慣が違うどころか身体の生態そのものが全く別物という異星人同士の二人は、当然最初は大きな距離があるものの、運命共同体であることによって必然的に絆を強めていきます。SF作品ではあるのですが、そうしたSFらしさ以上に全く異質な他者とどう関係性を築いていくかという心の問題を追求していて、理解するということ、受け容れるということの本質が描かれます。また、ゲセン人が両性具有であるという設定もここで活かされていて、単純な男と男の友情でもなく、男と女の恋愛感情でもなく、名前を付けようのない関係、一個の人間と人間との純粋な関係になっていて、印象深いです。
 全体的に淡々として起伏の少ない展開、語り口なので、決してとっつきやすい作品ではないのですが、SFを普段読まない方にもぜひ読んでみてほしい名作です。


スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)

スタンド・バイ・ミー―恐怖の四季 秋冬編 (新潮文庫)

【あらすじ】
 主人公ゴードン・ラチャンスは小説家。ある日子どもの頃からの親友が死んだことをきっかけに、ふとキャッスルロックという小さな町に住んでいた12歳の時のことを思い出す。12歳の夏休み、森の奥に子どもの死体があるという噂を聞いたゴードンを始めとする少年たちは、死体探しの旅に出て――。

【収録作】
「スタンド・バイ・ミー」
「マンハッタンの奇譚クラブ」

 言わずと知れたスティーヴン・キングの名作「スタンド・バイ・ミー」。「恐怖の四季」と題した春夏秋冬それぞれを舞台にした4つの中編を収録した作品集の中の1作で、映画化作品も有名です。
 あらすじのとおり、少年たちのひと夏の冒険のドラマで、あまりにも知られているので私がわざわざここで紹介するまでもないくらいですね。「スタンド・バイ・ミー」についてはこちらの記事でも取り上げていますので、ご参考ください。



 さて、以上が冒険を描いた小説の私的10撰です。ファンタジックな異世界を冒険するものもあり、現実の地球を横断するものもあり、身近な場所を探検するものもあり、どれもおもしろい作品ばかりです。少しでも興味をそそり、本選びの手助け、参考になればいいなと思います。では。


:『羊をめぐる冒険(上)』の書影は講談社の公式サイトから引用させていただきました。

【ブログ内関連記事】
旅に出たくなる本・私的8撰(海外編) 2013年10月18日  沢木耕太郎『深夜特急』を記事内で取り上げています。
SF小説・私的10撰 2013年10月6日  筒井康隆『旅のラゴス』を記事内で取り上げています。
夜に読みたい小説・私的10撰 2014年9月16日  川上弘美『七夜物語』を記事内で取り上げています。
夏に読みたい小説・私的10撰 2014年7月8日  スティーヴン・キング『スタンド・バイ・ミー』を記事内で取り上げています。
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by hitsujigusa | 2015-08-29 16:06 | 小説 | Trackback | Comments(0)

残穢 (新潮文庫 お)


 暑さ厳しい夏の今日この頃ですが、7月26日は幽霊の日です。なぜ7月26日が幽霊の日かというと、鶴屋南北の歌舞伎作品『東海道四谷怪談』が初演されたのが文政8年(1825年)7月26日ということで、それにちなんだ記念日だそうです。夏といえば怪談&ホラー、怪談&ホラーといえば幽霊ということで、まさにこの季節にぴったりな幽霊を描いた小説の私的10撰を取り上げたいと思います。とはいえ、今回選んだのはホラー系ばかりではなく、幽霊が登場するハートウォーミングな小説や、直接的には幽霊は登場しないけれども幽霊が存在することを匂わせるような小説もありますので、いろんな視点から描かれている幽霊小説10冊となります。


 まずは、怪異・怪談として幽霊を描いた小説4冊です。


私の家では何も起こらない (文庫ダ・ヴィンチ)

私の家では何も起こらない (文庫ダ・ヴィンチ)

【あらすじ】
 小さい丘の上に立つ古い家。そこではかつて姉妹がお互いを殺し合い、料理女がさらってきた子どもを料理し、殺人鬼の美少年が自殺した。不気味な歴史を刻むこの幽霊屋敷に、今はある女流作家が住んでいて――。

【収録作】
「私の家では何も起こらない」
「私は風の音に耳を澄ます」
「我々は失敗しつつある」
「あたしたちは互いの影を踏む」
「僕の可愛いお気に入り」
「奴らは夜に這ってくる」
「素敵なあなた」
「俺と彼らと彼女たち」
「私の家へようこそ」
「附記・われらの時代」


 青春小説、ミステリー、SFなど幅広い分野で活躍する人気作家・恩田陸さんの『私の家では何も起こらない』。あるいわくつきの屋敷を舞台に、その家で起こったさまざまな出来事を描いた連作短編集です。1編1編が独立した話になっているので、それぞれ別個に読むこともできますが、一つの家の中で脈々と続いてきた歴史という視点で見ることで、さらに怖さを増す怪談となっています。
 直接的に幽霊が登場するわけではないので、「幽霊を描いた小説」とは言えないかもしれないのですが、屋敷で起こったさまざまな出来事によって屋敷そのものが何かに憑かれたような場所になってしまう、その姿をリアルに書いています。何よりも魅力的なのが舞台となる屋敷で、ほかにも『ネバーランド』『麦の海に沈む果実』『蛇行する川のほとり』『ユージニア』など、舞台となる場所の風景を美しく映像的に描き出す恩田さんらしく、この『私の家では何も起こらない』もどこかに本当に実在しているんじゃないかと思わせるような存在感・実在感でお屋敷を立体的に描写しています。
 幽霊が住む家の雰囲気を生々しく、それでいて美しく幻想的に描いた『私の家では何も起こらない』。幽霊屋敷の世界にどっぷり浸れる作品です。


残穢 (新潮文庫 お)

残穢 (新潮文庫 お)

【あらすじ】
 作家の「私」の元にその手紙が届いたのは2001年の末のことだった。手紙の主は都内のマンションに住む30代女性の久保さんという人で、手紙によると久保さんはその部屋に何かがいるような気がするという。その何かとは畳の表面を擦るようなかすかな音で――。

 ホラー小説やファンタジー小説を中心に活躍する小野不由美さんの『残穢』(ざんえ)。2016年1月には中村義洋監督、竹内結子主演で映画化作品が公開されることも決定しているホラー長編です。
 この小説の最大の特徴はドキュメンタリー・ホラーであること。語り手の「私」は小説家で、著者である小野さん自身であるかのように書かれ、その「私」が読者からの手紙をきっかけに怪異の原因を探っていくさまがドキュメンタリータッチで描かれます。怪異に対してただ怖がるのではなくて、怪異の正体、なぜ怪異が生じるのか、その場所で過去に何があったのかを冷静かつ客観的な目で分析し、とてもロジカルに怪奇現象の仕組みをひも解いていきます。ただそれは怪異を科学で解明するといったものとは違って、あくまで怪異は怪異として、怪現象の根っことなる現実の出来事、歴史を辿っていくので、尋常じゃなく説得力があり、より恐怖感が増すホラーとなっています。
 こちらも直接的に幽霊の姿が描かれるわけではありませんが、霊の存在をリアルに感じさせる本格的な幽霊小説です。また、同じ小野さんのホラー小説では、心霊現象を科学的に調査する『ゴーストハントシリーズ』、ゾンビを題材にした『屍鬼』もおすすめです。


室生犀星集 童子―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)

室生犀星集 童子―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)

【収録作】
「童話」
「童子」
「後の日の童子」
「みずうみ」
「蛾」
「天狗」
「ゆめの話」
「不思議な国の話」
「不思議な魚」
「あじゃり」
「三階の家」
「香爐を盗む」
「幻影の都市」
「しゃりこうべ」

 文豪・室生犀星の怪異譚を集めた短編集『室生犀星集 童子』。さまざまな視点からの怪談や幻想的な短編が収録されていますが、幽霊がモチーフとなっているのは初めの方に収められている「童話」「後の日の童子」の2編。怪談ではあるのですが恐怖感を呼び起こすものではなく、2編とも亡くなった幼子が家族の元に戻ってくるさまを静かな筆致で淡々と描いています。死者が自分たちの元に帰ってくるという喜び、温かさもあり、その一方でやはり死者であるという違和感、哀切もあり、そういった微妙なシチュエーションを、家族の複雑な心中とともに繊細に書いていて心に残ります。
 『室生犀星集 童子』についてはこちらの記事に詳しく書きましたので、ご参考ください。また、この短編集を含むちくま文庫の「文豪怪談傑作選」シリーズはほかにも川端康成、泉鏡花、小川未明、芥川龍之介など、文豪の怪談を独自の視点で編んだアンソロジーのシリーズとなっていて、どれも読みごたえのあるものばかりなので、ぜひ手に取ってみてください。


降霊会の夜 (朝日文庫)



【あらすじ】
 初老の“私”はしばしば知らない女が出てくる不思議な夢を見ていた。そんなある夜、“私”は夢の女とそっくりな女と出会う。女は、森にジョーンズ夫人という霊媒師が住んでおり、死んだ人にも会わせてくれると“私”に言う。興味を持った”私”はジョーンズ夫人の元を訪れて――。

 降霊会をテーマにした浅田次郎さんの『降霊会の夜』。ここまでに挙げた3作は、直接的に幽霊が形をって現れないもの、もしくは幽霊が生前そのままの形をとって現れるものでしたが、この作品は霊が生きている人の体に降りてくるというものです。降霊の様子が臨場感たっぷりに書かれていて、自分が疑似体験しているかのような迫力に満ちています。
 『降霊会の夜』はこちらの記事の中でも取り上げていますので、詳しくはこちらをご覧ください。


 続いてはハートウォーミングな幽霊が登場する小説2冊です。


いま、会いにゆきます (小学館文庫)



【あらすじ】
 秋穂巧は1年前に妻である澪を亡くし、息子の佑司を一人で育てていた。澪は生前、「雨の季節に戻ってくる」という言葉を残したが、雨の季節になり、巧と佑司の前に死んだはずの澪が本当に現れ――。

 大ベストセラーとなり映画化、テレビドラマ化もされた市川拓司さんの『いま、会いにゆきます』。純愛小説として知られていますが、亡くなった妻が戻ってくるということで幽霊小説とも言えるんじゃないかなと思います。とはいえもちろん怖さはなく、愛する人が戻ってくるという幸福感に満ちた物語となっています。また、人物描写だったり情景描写だったり、作品全体に渡って独特なファンタジックな描き方、言葉選びがされており、そういった部分も印象的です。その一方で、妻はなぜ戻ってきたのか、妻の生前の“予言”の意味は……というミステリータッチなところもあり、単なる純愛小説で終わらない奥行きのある小説だと思いますね。


ふたり (新潮文庫)



【あらすじ】
 中学2年の北尾実加には高校2年の姉、千津子がいた。優等生で人気者の千津子に実加も憧れていたが、そんな時千津子が登校中に交通事故に巻き込まれて亡くなってしまう。ショックを受ける実加だったが、ある日突然頭の中に千津子の声が聞こえ始めて――。

 こちらも映画化、テレビドラマ化された赤川次郎さんの代表作『ふたり』。亡くなった姉と姉の声を聞く妹の不思議な日々を描いていて、青春小説としてもおもしろい作品です。厳密には亡くなった姉は声でのみの登場なので幽霊と言えないかもしれませんが、死者の声が聞こえるという点で今回選びました。
 そんな不思議な現象を描いた物語ではありますが、内容としてはその不思議さ、奇妙さにフィーチャーするというのではなく、主人公・実加の成長、姉妹・家族の絆というところに重きを置いていて、そこに“死んだ姉”という強いモチーフが加わることによって、普通の青春小説にはない痛みだったり苦さだったりをうまく織り込んだ作品になっていると思います。また、平凡な妹と優秀な姉という典型的な姉妹のストーリーですが、物語序盤に早々と姉が亡くなり妹にだけその声が聞こえるという設定にすることによって、あぶり出されていく姉妹間、家族間のひずみみたいなものを自然に描き出していて、“死者の声”というモチーフを効果的に使った小説と言えますね。


 次はユーモラスな幽霊が登場する小説2冊です。


あかんべえ〈上〉 (新潮文庫)



【あらすじ】
 江戸・深川の料理屋「ふね屋」では開店を祝う宴会が行われていた。その時、突然抜き身の刀がひとりでに暴れ出し、座敷をめちゃくちゃにしてしまう。「ふね屋」の娘おりんには、刀を振り回す亡霊の姿が見えて――。

 ミステリー、社会派、時代物など多ジャンルで活躍する人気作家・宮部みゆきさんの時代小説『あかんべえ』。霊が見える少女・おりんを主人公に、「ふね屋」に住みつく5人の霊との交流を描いています。この5人の幽霊―あかんべえする少女、美男の若侍、あだっぽい美女、按摩のじいさん、宴で暴れたおどろ髪の男―たちがそれぞれに個性的でキャラの強いユーモラスな幽霊で、常識者のおりんとのやりとりが見どころとなっています。その一方で5人の幽霊たちには幽霊にならざるを得なかった理由、隠された過去、「ふね屋」が建つ場所にまつわる因縁などさまざまな秘密があり、その謎をおりんが解き明かしていくというミステリーにもなっています。時代物に限らず社会派ミステリーでもSFでもうまくヒューマンドラマを織り込む宮部さんらしく、幽霊たちのドラマとミステリーを巧みに絡ませていて、人間ドラマとしてもミステリーとしても読みごたえたっぷりな作品です。


幽霊屋敷で魔女と (山中恒よみもの文庫)



【あらすじ】
 父の再婚である古い屋敷に暮らすことになったマイ。新しいママは美人で仕事もできる。しかし、夜中に呪文を唱えたり、人の心を読んだりと何かがおかしい。そこに亡くなったおばあちゃんの幽霊が登場して――。

 児童文学作家・山中恒さんの『幽霊屋敷で魔女と』。主人公の少女マイが魔女である継母と対決する痛快なファンタジーです。山中さんはほかにも映画化された『おれがあいつであいつがおれで』や『なんだかへんて子』など多くの児童書を手がけていますが、基本的には明るく楽しく、クスッと笑えるユーモアがありつつも、けっこう思い切って主人公の子どもに厳しさを与えるシビアさ、クールさもあるのが特徴的です。この『幽霊屋敷で魔女と』も主人公のマイは客観的に見たら子どもにとってはかなり辛いシチュエーションに身を置くことになりますが、それでメソメソしたりビクビクしたりせず、わりと淡々と魔女に立ち向かっていく様子が、状況とのギャップがあっておもしろいですね。ストーリー的にはしっかりとしたホラー風味もあるのですが、マイやおばあちゃんの幽霊のキャラクターに助けられて、ドキドキハラハラしながらワクワクもできる作品です。


 さて、最後はミステリー色の強い作品2つです。


文庫版 狂骨の夢 (講談社文庫)



【あらすじ】
 逗子を旅する伊佐間一成は海岸で花をたむける女・朱美と出会う。体調を崩していた伊佐間は夫が不在中であるという朱美の家で休養を取ることになる。その朱美は過去に人を殺したと話す。一方、同じ逗子の教会では牧師の白丘と元精神科医の降旗が、かつて殺した夫が蘇り自分に会いにくるという女の話を聞いていて――。

 怪談やミステリーを多く手がける京極夏彦さんの『狂骨の夢』。代表作「百鬼夜行シリーズ」の3作目です。「百鬼夜行シリーズ」をご存知ない方もいらっしゃると思いますのでざっくり説明しますと、普段は古本屋、副業は“憑き物落とし”である中禅寺秋彦、通称“京極堂”が、戦後間もない昭和を舞台にオカルティックな怪現象を自身の知識を駆使して解決するミステリーです。毎回一つの妖怪が重要なモチーフとして登場し、この『狂骨の夢』では井戸から浮かび上がる骸骨姿の妖怪“狂骨”がモチーフとなります。なので正確には幽霊というよりゾンビっぽいのですが、死者が蘇るというのが物語の軸となっています。
 作中ではキーパーソンとなる女・朱美が過去に犯したという殺人、金色の頭蓋骨が逗子湾に打ち上がった逗子湾金色髑髏事件、二子山で10人の男女が自殺した集団自殺事件など、複数の事件・問題が同時多発的に発生し、複雑に絡み合います。『狂骨の夢』に限らず、「百鬼夜行シリーズ」では複数の人物が別々の場所で別々の事件に関わり、それらが実はある一点で繋がっていて……という形をとることが多いのですが、その過程で民俗学、科学、宗教学、心理学など、さまざまな見地から事件が分析され謎解きが進められていくさまが実に痛快です。そして、小説の構造自体がトリックとなる場合もあり、ミステリーの醍醐味も存分に味わえます。『狂骨の夢』では蘇った死者が重要な役割を果たし、一見ホラーめいた出来事の裏に潜む人間ドラマ、多層的なトリックに圧倒される作品となっています。


わたしが幽霊だった時 (創元推理文庫)

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【あらすじ】
 ふと気づくとあたしは幽霊になっていた。体は宙に浮いているし壁をすり抜けられる。家に帰ってみると姉や妹が相変わらずケンカしている。そして、あたしは自分自身が4姉妹のうちの誰なのか、どうして幽霊になってしまったのか全くわからなくて――。

 イギリスを代表するファンタジー作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズさんの『わたしが幽霊だった時』。これまでに紹介した作品とは違って、語り手である主人公自身が幽霊という斬新な物語です。ファンタジー要素もたっぷり、そしてイギリス人らしいユーモアもたっぷり盛り込みつつ、主人公の正体は!?というミステリーとしても楽しめる作品です。主人公がいつのまにか幽霊になっているという一見突拍子もないファンタジックなストーリーですが、その謎を巡り数年に渡る記憶を探って冒険する展開はシリアスでもあって、本当の意味で自分探しをする少女の素晴らしい冒険譚ともなっています。元々は子ども向けですが、大人にもぜひ読んでほしい小説ですね。



 ということで、幽霊を描いた小説・私的10撰は以上です。この10冊以外にも幽霊を題材にした小説は数多くありますが、個人的には今回選んだ10冊もなかなかバラエティ豊かでおもしろい顔ぶれになっているんじゃないかなと思います。ご参考になれば幸いです。


:『わたしが幽霊だった時』の書影は、東京創元社の公式ウェブサイトから引用させていただきました。

【ブログ内関連記事】
室生犀星『室生犀星集 童子』―生と死の生々しさ 2013年5月30日
夜に読みたい小説・私的10撰 2014年9月16日  室生犀星『室生犀星集 童子』、浅田次郎『降霊会の夜』を記事内で取り上げています。
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『大魔法使いクレストマンシー』―しっちゃかめっちゃかな正統派ファンタジー 2014年8月15日
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by hitsujigusa | 2015-07-24 19:51 | 小説 | Trackback | Comments(0)

アフターダーク (講談社文庫)


 9月に入り、徐々に秋らしさが感じられるようになってきました。今頃の季節の夜のことをよく“秋の夜長”と言いますが、日の入りから日の出までの時間がいちばん長いのが秋だからというのが理由なようです。ということで、長い夜に読むのにぴったりな小説を10冊ご紹介したいと思います。


 まずは“夜小説”の大定番とも言える作品。

夜のピクニック (新潮文庫)

夜のピクニック (新潮文庫)

【あらすじ】
 高校3年生の甲田貴子が通う北高には、全校生徒が24時間かけて80キロの道のりを歩く“歩行祭”という行事があった。貴子は高校最後のこの歩行祭で、クラスメートの西脇融に関したある賭けを自分の中に秘めていた。一方、西脇融も貴子のことをある特別な理由から意識していて――。

 恩田陸さんの『夜のピクニック』。映画化もされており、恩田さんの代表作となっている。
 ストーリーは実にシンプルで、歩行祭に参加する中で登場人物たちが自分の秘密を吐露したり、自分自身と向き合ったりし、友情を深め成長していくというある意味青春小説らしい青春小説と言える。こういうふうに内容をまとめてしまうと何とも陳腐で申し訳ないのだが、実際に作中で大きな事件が起こるとかあっと驚くようなどんでん返しがあるとかいうことはなく、キャラクターたちの台詞の積み重ね、やりとり、心理描写によって物語は進められていく。
 それが成り立つのはやはり“歩行祭”という設定が大きい。昼日中に行われるウォーキングやハイキングなどではなく、朝の8時に学校を出発して翌日の朝8時に再び学校に戻ってくるという夜通しで行う行事の特殊性。昼ならば自分自身に仮面をつけて取り繕うこともできるが、夜ともなればそうはいかない。暗闇の中に身を投じるという特別感、真夜中に堂々と外を出歩いているという非日常感、それに加えて身体を侵食してくる疲労感が、被っていた仮面を取っ払い、ありのままの心を露わにしていく。夜が持つ魔力がそうさせるのである。
 また、歩行祭は前半はクラスごとに歩く団体歩行、後半は誰と歩いても良い自由歩行となっていて、この構成も巧みである。比較的のんびり歩く前半、転換点となる後半、ラストスパートをかける終盤といったように歩行祭の中でもメリハリがあり、ただほのぼのと歩くだけにはなっていない。そして午前8時までにゴールしなければいけないという緊張感もある。だからこそキャラクターたちの心にも緩んだり張り詰めたりと微妙な移り変わりが生まれ、ストーリー自体は地味にもかかわらずドラマティックとさえ感じられる物語になっている。
 主人公は甲田貴子と西脇融のふたりで、それぞれの視点が交代する形で語られる。主軸となるのは貴子と融のあいだの秘密、因縁だが、ふたりの友人たちもしっかり“キャラ立ち”している。主人公の添え物ではなく、その人物の性格や育ってきた背景など、書かれていないところまで伝わってくるような細かい人物造形。クラスにこういう人いたよなーと思わせる実在感。そういった巧みな描写によって主人公の成長物語にとどまらない、読みごたえのある青春群像劇に仕上がっている。


 こちらも、夜という設定を効果的に使った作品です。

アフターダーク (講談社文庫)

アフターダーク (講談社文庫)

【あらすじ】
 深夜のファミレスで大学生の浅井マリはひとり、本を読んでいた。そこに風変わりな青年・高橋が現れ、マリに声を掛ける。マリと高橋はとりとめもない会話を始める。一方、高橋の元同級生でマリの姉であるエリは、暗い部屋の中で2か月も眠り続けていて――。

 村上春樹さんの『アフターダーク』は、ある一夜の出来事を描いた作品。23時56分から6時52分という夜の中で交錯するさまざまな人々のちょっと変わった日常というのを描いている。
 ある一夜に、特定の場所で起きた物事を書いているという点で村上さんの小説の中では珍しいタイプの作品かなと思う。深夜のデニーズに女の子がいて、そこに青年がやって来て、他愛もない会話を交わして……という変哲もないといえば変哲もない話である。もちろん実際はそれだけではなくて、マリがラブホテルと関わっていたり、マリの姉がなぜか長い間眠り続けていたりとありきたりな日常話では終わらないのだが、大事件が起こるとか別の場所へ冒険に行くとかいうことはなく、現実世界の都会の街の深夜の光景を描写しているにすぎない。にもかかわらず、この物語全体にはどこか異界のような妖しさが漂う。デニーズやセブン・イレブン、スガシカオといった固有名詞や、ラブホテルや中国人の売春婦といった生々しいモチーフも登場するが、全てひっくるめてこの世のことでないような不思議な雰囲気に包まれている。
 だからといって、現実感がないということではない。特に、夜から夜明けに向かって流れる時間の描写は印象的だ。時間とともに変化していく空気の質感、夜特有の冷たさ、または温かさ。暗さと明るさ、静けさと喧騒などが、手触りのある表現で描かれていて、その点では普通の日常らしいにおいがする。
 また、珍しいといえば文章も特徴的である。現在進行形で三人称のシナリオ風文章は、淡々と登場人物たちの表情や動きを描写するもので、その淡々ぶりが現実から一歩離れたところで景色を眺めているような、それこそ客席からステージの上のお芝居を観賞しているような何とも言えない心地にさせる。
 もうひとつ特徴と言えるのが、語り手である。この物語の語り手は“私たち”という謎の存在である。“私たち”は世界を俯瞰するような形で人々を眺め、マリや高橋、エリたちの姿をとらえる。このつかみどころのない不可思議な語り手の存在も、現実であり現実でないようなこの物語の雰囲気をいっそう高めている。


 続いては、子どもにとっての夜を描いた児童書3冊です。


七夜物語(上)

七夜物語(上)

【あらすじ】
 母とふたり暮らしのさよは小学4年生。ある日、さよは町の図書館で『七夜物語』というタイトルの本を見つける。なぜか『七夜物語』に惹かれるさよだったが、ある夜、ひょんなことから同級生の灰田くんと一緒に近所の高校に忍び込むことに。そこで出会ったのは人間ほどもある大きなネズミで――。

 川上弘美さんのファンタジー『七夜物語』。主人公さよとその友だちである灰田くんとが、不思議な夜の世界に入り込みさまざまな冒険をしていくというお話。といってもその“冒険”は決して明るく楽しいものではなく、子どもたちにとっては本当に過酷で辛いものである。もちろんそれは肉体的に虐げられるとかいじめられるとかいった類のものではないが、もしかしたらそれよりも辛い経験かもしれない。
 さよと灰田くんが夜の冒険の中で対峙するのは、悪意を持った敵などではなく、自分自身に内在する“闇”である。大人が自分のダークサイドと向き合うといった小説は数多くあるが、一見無垢で純粋な幼い子どもの世界に存在する“闇”や“暗さ”を描いていて、印象深い。
 ふたりが向き合わなければいけない“闇”は、たとえば親や友だちに対する不安や不満、モノを粗末に扱ってしまう傲慢さ、自身に対する嫌悪感といった、大人と何ら変わらないものである。そういった物事がファンタジーらしいシンボリックな形で表現される。大人でも自分の汚い部分と向き合うのは嫌なものだが、子どもにとってみたらそれ以上で、さよと灰田くんも戸惑い、拒否感を示す。しかし、夜という圧倒的に孤独な世界に置かれる中で、必然的にふたりは自分の心と対話することになる。たどたどしく、危なっかしくとも、子どもは子どもなりに考え、自分の答えを導き出す。そんな子どもたちの姿は、ファンタジーではあるが現実味に溢れている。
 子どもが読むのはもちろん、大人が読んでも楽しめ、考えさせられる点も多い秀逸な作品。



夜の子どもたち

夜の子どもたち

【あらすじ】
 地方の小さな町・八塚市で、5人の子どもたちがある日突然登校拒否となった。その原因を探るため八塚市にやって来た若きカウンセラーは、5人に共通のある恐怖体験があることを突き止める。しかし、子どもたちの不登校以外にも、八塚市には謎めいたことが多くあって――。

 児童文学作家・芝田勝茂さんの『夜の子どもたち』。その名もずばりなタイトルだが、“夜”というモチーフを巧みに使った作品。
 この作品が最初に出版されたのは1985年。今では不登校など珍しいことでもなんでもないが、80年代あたりはまだ一般的な社会問題としてはさほど重要視されていなかったのだろう。この物語は5人の子どもの不登校問題を解決しようとカウンセラーがやって来るところから始まる。が、単にそれぞれの子どもたちの精神とか家庭環境といった個々の問題ではなく、もっと巨大な存在が不登校の背景にあることが徐々に分かってくる。謎解きがメインなのであまり詳しくは書けないが、その鍵を握るのが“夜”なのである。
 “夜”が人間に与える影響、“夜”の根源に迫る内容となっていて、どことなく背筋が寒くなるような不気味さもある。ミステリーとしてはあくまで子ども向きかもしれないが、何とも言えないうすら寒さというか、人間の心の闇をあぶり出すような感じは、大人が読んでもちょっと怖いんじゃないかという気がする。



トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))

トムは真夜中の庭で (岩波少年文庫 (041))

【あらすじ】
 トムは弟のピーターがはしかにかかったため、おじさんとおばさんが住むアパートに預けられるはめに。アパートは古く大きな邸宅だったが、まわりに友だちもおらずトムは退屈する。そんなある夜、アパートのホールの大時計が13回鳴り、あるはずのない夜の“13時”を告げたのをトムは目の当たりにする。さらに、裏口の外には昼間は無かった美しい庭が広がっていて――。

 イギリスの児童文学作家、フィリパ・ピアスさんの代表作『トムは真夜中の庭で』。言わずもがなの名ファンタジーであり、夜を舞台にした傑作です。
 主人公の少年トムが、真夜中にもかかわらず13回鳴る時計をきっかけに不思議な庭園を見つける。トムは庭でハティという少女と出会い、そこがヴィクトリア朝時代であることを知る。つまりはタイムトリップものなわけだが、SFではなくあくまで幻想的でロマンティックなファンタジーとなっている。
 庭を主な舞台にした児童文学はいろいろあるが、この作品は夜の庭が舞台となっていて、その謎めいた神秘的な雰囲気が何よりも魅力的。そして、時計が13回鳴ったり過去にタイムスリップしたりと、童心をくすぐるようなアイディアやモチーフがいっぱいでそれだけでもワクワクさせられる。
 だが、今作もやはり夜を舞台にしているだけあって、少年と少女が出会って楽しい時間を過ごしました、めでたしめでたしというような底抜けに明るいのみの物語ではなく、子どもの心の問題がちゃんと描かれる。逆に言えば心に閉ざされているものを露わにするからこそ、夜でなければいけないのだろう。


 次は、夜を描いた海外の小説3冊です。


夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)

夜想曲集: 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語 (ハヤカワepi文庫)

【収録作】
「老歌手」
「降っても晴れても」
「モールバンヒルズ」
「夜想曲」
「チェリスト」

 イギリスの作家、カズオ・イシグロさんの短編集『夜想曲集 音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』。音楽と夜(夕暮れ)をテーマにした5つの短編が収録されている。
 どの短編も素晴らしく、それぞれに魅力があるが、共通しているのは大人の物語だということ。人生の盛りを終え、人生の夕暮れに差し掛かろうとしている人々の哀愁、悲哀が深く心に残る。「老歌手」の舞台はベネチア。離婚間近の老歌手とその妻、ひょんなことから夫婦と知り合いになったギター奏者の話だが、老歌手が醸し出すおかしみと渋みが、ベネチアの夜のロマンティックな情景と相まってしっとりとした味わいを感じさせる。「降っても晴れても」は、故郷に帰った男と久しぶりに再会した友人夫婦とのおかしなすれ違いを描いている。基本的には喜劇なのだが、年月を経るうちに変化してしまった友情の切なさもあり、単なるコメディに終わらない。「夜想曲」はあるホテルに宿泊したサックス奏者の男と有名女優との奇妙な一夜の物語。ホテルという見知らぬ場所で、見知らぬ人間と一夜の接点を持つというちょっとした非日常感がありありと描写される。全くの赤の他人、今後自分の人生に関わることのない人間が相手だからこそ、心を開くことができる。そんな大人と大人のふれあいが印象的だ。
 5つの短編はどれも大人の悲哀を感じさせる内容だが、決して湿っぽさはない。からりとしてとても清々しい哀切だ。だからこそ、悲哀とともに少し笑えるようなコミカルさもあるし、読んでいて心地よい。そんな短編集である。


初夜 (新潮クレスト・ブックス)

初夜 (新潮クレスト・ブックス)

【あらすじ】
 1962年のイギリス。若き夫婦、エドワードとフローレンスは結婚式と披露宴を終えたばかり。幸福の真っただ中にいるふたりだったが、それぞれ危惧していることがあった。それは、セックスの経験がないこと。両親や友人たちに見送られ、いよいよエドワードとフローレンスは初めての夜を迎えることになるが――。

 こちらもイギリスの作家、イアン・マキューアンさんの『初夜』。タイトルのとおり、結婚初夜の若い夫婦の話なので、厳密に言えば“夜”を描いているというよりも“初体験”を描いているのだが、夜を舞台にしていることは間違いないので選ばせて頂いた。
 1960年代初頭のまだ“性”に関しては閉鎖的だった時代。エドワードとフローレンスも当然のごとく“性”については無知で、結婚式を終え、その瞬間が目前に迫っている今、最大の緊張を強いられている。息を張り詰めるような不穏な空気が物語の冒頭からヒシヒシと感じられ、ふたりの不安、心配が手に取るようにわかる。
 初めて身体を重ねる“初夜”という出来事の重さ、深刻さがここまで真正面から書かれている小説も珍しいだろう。男女が結ばれることの幸福、甘さではなく、恐怖にも似た困難が主題である。やはりそこには時代性もあって、“性”が一種のタブーであるからこそ、この夫婦も戸惑いを覚えるのである。未知の世界に足を踏み入れる時の恐れ、無知ゆえの危うさ。反対に、新しい経験への期待や歓喜もあり、ふたりの複雑な感情が緻密かつ臨場感たっぷりに描かれる。
 “性”の描写だけでなく、風景描写も美しい。初夜の舞台となるホテル、ホテルが立地する風光明媚なビーチ。1960年代のイギリスの雰囲気も存分に味わえる作品である。


 最後は、怪異を描いた日本の小説3冊です。


きつねのはなし (新潮文庫)

きつねのはなし (新潮文庫)

【収録作】
「きつねのはなし」
「果実の中の龍」
「魔」
「水神」

 森見登美彦さんの短編集『きつねのはなし』。どの短編も京都を舞台に、現実と非現実が入り混じった妖しげな出来事、事件を描いている。必ずしも夜をメインにした話ばかりではないが、夜のシーンが多く、印象深い。
 この短編集に限らず森見さんの小説というのはどれもそうだが、妖しい情景を描写したり独特の雰囲気を作り出すのが巧い。この4編でもその描写力は存分に発揮されていて、自然に異界へと導いてくれる。
 「きつねのはなし」はある古道具屋にまつわる怪異譚。アルバイトの主人公の青年、若く美しい古道具屋の女主人、不気味な雰囲気を漂わせる古馴染みの客、そして謎めいた古道具。シチュエーションや設定は奇抜なものではないが、その古風な情緒が懐かしくも新鮮であり、引き込まれる。
 ほかの3編にも共通して同じことが言えるが、「水神」はまた少し違った面白味のある話だ。主人公の青年は亡くなった祖父の通夜に出かける。通夜の後、青年の父や伯父たちと酒宴をしながら寝ずの番をすることになる。そして、ここにも”芳蓮堂”が登場し、祖父が預けた家宝を返しに来る。夜は夜でも通夜の夜という非日常の時間が、いかにもこの世のものでない何かを寄せ付けそうで最初から気味の悪さを匂わせる。しかも、それがどっぷり非日常に浸ったシチュエーションではなく、“通夜”という誰もが経験ある日常の延長線上の非日常だからこそ、なんとなく想像ができて怖い。
 「水神」は思いっきり夜を描いているが、そうでない作品でも常に暗闇の気配が付きまとうのが、この短編集の魅力である。


室生犀星集 童子―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)

室生犀星集 童子―文豪怪談傑作選 (ちくま文庫)

【収録作】
「童話」
「童子」
「後の日の童子」
「みずうみ」
「蛾」
「天狗」
「ゆめの話」
「不思議な国の話」
「不思議な魚」
「あじゃり」
「三階の家」
「香爐を盗む」
「幻影の都市」
「しゃれこうべ」

 詩人としても活躍した文豪・室生犀星の怪談を集めた短編集『室生犀星集 童子』。
 上述した『きつねのはなし』同様、全てが夜ばかりを舞台にした作品というわけではないが、やはりこれも暗闇の気配が色濃く漂う短編集である。室生犀星のそれは森見さん以上に濃く、しかも体感に迫るような生々しさ、グロテスクさもある。美しい闇というよりは悪寒が走るほどの暗さ、冷やかさである。
 当ブログでは既にこの本を単独で取り上げて記事にしているので、詳しくは下のリンクをご参考下さい。


降霊会の夜 (朝日文庫)

降霊会の夜 (朝日文庫)

【あらすじ】
 初老の“私”はしばしば知らない女が出てくる不思議な夢を見ていた。そんなある夜、“私”は夢の女とそっくりな女と出会う。女は、森にジョーンズ夫人という霊媒師が住んでおり、死んだ人にも会わせてくれると“私”に言う。興味を持った”私”はジョーンズ夫人の元を訪れて――。

 浅田次郎さんの『降霊会の夜』。主人公が降霊会で亡き思い出の人々と再会する怪異譚です。
 亡霊が登場するのでホラーとも言えないこともないが、亡霊が登場するということ以外にはさほどホラーめいた仕掛けや設定はない。この小説でメインとなるのは、主人公の思い出であり人生である。亡霊と再会することで自分の人生を振り返る主人公。少年時代、青年時代のさまざまな出来事が、生前に主人公と関わりを持った亡霊たちの証言によって語られる。亡霊が語ること自体に不気味さがないわけではないが、いちばん怖いと感じるのは人間の心である。主人公がこれまでの人生で目にしてきた人間の心の闇、そして彼自身が犯してきた罪悪。亡き人々との再会によって、男は否応なく自分の心と向き合わざるを得なくなる。
 亡霊の証言というのはもちろん一種のファンタジーなのだが、にもかかわらずそこには妙なリアリティがある。死者といってもそれらは自分が知る人々であり、確かにかつて生きていた人々なのだ。“幽霊”などといっておざなりにできない。そんな亡霊の実在感みたいなものが物語全体から滲み出ていて、怪談に説得力を与えていると思う。



 以上が、夜に読みたい小説のベスト10です。怪談とか怪異譚というのは必然的に夜の話になることが多いかなと思うのですが、そういった夜の怖さを書いたものだけでなく、『夜のピクニック』や『アフターダーク』、『夜想曲集』のような夜の描き方もあり、ひとえに“夜”といっても多種多様ですね。また、子どもにとっての夜を描いた作品も印象的で、大人にとってのそれとはまた意味合いの異なった“夜”になるんですね。成長するための孤独を味わう時間としての“夜”でしょうか。
 というわけで、この記事はこれで終わりです。秋の夜長にひっかけた記事ですが、もちろん秋のみならず、いつの夜に読んでも楽しめる小説ばかりです。ご参考になればと思います。では。


【ブログ内関連記事】
冒険を描いた小説・私的10撰 2015年8月29日  川上弘美『七夜物語』を記事内で取り上げています。
室生犀星『室生犀星集 童子』―生と死の生々しさ 2013年5月30日
幽霊を描いた小説・私的10撰 2015年7月24日  室生犀星『室生犀星集 童子』、浅田次郎『降霊会の夜』を記事内で取り上げています。
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by hitsujigusa | 2014-09-16 01:56 | 小説 | Trackback | Comments(2)

真夏の航海


【あらすじ】
 グレイディ・マクニール、17歳。彼女の両親は夏休みのバカンスとしてフランスに旅立った。一人、夏のニューヨークに残されたグレイディは、両親には内緒にしている恋人クライドとの休日を楽しむのだった。そしてふたりの恋は日に日に深まり、とうとう自分たちだけで結婚することを決めて――。


 アメリカの小説家トルーマン・カポーティ。『ティファニーで朝食を』『冷血』といった名作を著し、さまざまなスキャンダルを巻き起こした末に、1984年の8月25日に59歳で死去しました。そんなカポーティの命日に合わせて、今回は彼の処女作ともいえる長編小説『真夏の航海』をピックアップ。

 『真夏の航海』は少し変わった形で世に出た小説だ。2004年、ニューヨークであるノートが発見される。その中には若きカポーティが書いたと思われる小説の草稿が記されていた。『冷血』の成功によってブルックリンのアパートを引き払ったカポーティがゴミとして捨てていったものが残されていたのだ。ノートはオークションにかけられ、その後カポーティの弁護士とも相談された上で、2005年にアメリカで出版。それが『真夏の航海』という小説の辿ってきた経緯である。
 物語の舞台はカポーティが暮らしたのと同じニューヨーク、時は1945年。話のメインとなるのはグレイディとクライドの恋模様だ。夏の初め、まだ子どもの恋愛ごっこのような甘さを感じさせる二人の恋は、夏の深まりとともに徐々に真剣味を帯びていく。ただしそれはどこか退廃的で滅びの気配を漂わせる、底なし沼にハマってしまったかのような恋だ。二人が勢いで結婚するとその予感は決定的なものとなる。行き着く先のない恋に強引に結婚という形で終着点を与えたことで、二人の関係に綻びが生じる……。話の内容自体には重々しさもあるが、クールな文体と軽快なストーリー運びによって疾走感に満ちた物語となっている。
 タイトルには“真夏”とあるが、物語はそこまで夏らしさに満ち満ちているという感じではなく、特に夏の風物詩が描かれるわけでもない。しかし、その“夏らしさのない夏”というのが不穏な雰囲気を醸し出し、二人の行方を暗示しているようにも思える。当然のごとく空に在って燦々と輝いているべき太陽の存在感の無さが、物語全体に夏らしからぬ冷やかさ・暗さを付与しているのだ。

 もう一つ、印象的なのはアメリカの階級社会の一端が描かれていることである。主人公のグレイディは典型的なマンハッタンのアッパークラスの家庭育ち。一方、恋人のクライドはブルックリンに住むユダヤ人の中流家庭。マンハッタンの華やかな生活に慣れ親しんでいるグレイディとパーキングの警備を仕事にしているクライドとのギャップは、特にマンハッタンとブルックリンという設定に見て取れる。クライドとの結婚を決めたグレイディは初めて訪れたブルックリンの彼の実家で、自分の家庭と彼の家庭とのあいだの文化的格差を目の当たりにする。それはプロテスタントであるマクニール家とユダヤ人であるクライドの家との宗教の違いもあるし、社会的地位や生活レベルの違いもある。恋の甘さに浸っていたグレイディはここでようやくシビアな現実に直面するのだ。
 マンハッタンとブルックリンという舞台設定は単に同じニューヨークでもこれだけの差異があるということを示す意味だけでなく、グレイディとクライドのあいだの心理的な距離・遠さ、乗り越えられない溝をも象徴しているように思える。

 ここで全く話は変わるが、この小説を読んでふと思ったのはこれが1945年の夏の物語だということだ。1945年の夏といえば日本ではもちろん戦争末期、そして終戦の夏。しかし、この物語には戦争の影は欠片も感じられないし、戦争の“せ”の字もない。同じ時代、同じ夏、戦争をしていたという事実は一緒でも、こんなに違うのだなとふと感じた。

 『真夏の航海』の原題は「Summer Crossing」。“Crossing”にはいろんな意味がある。横断、交差点、踏み切り、過渡。17歳の少女の人生の“交差点”、少女と少年の運命が“交差”する一瞬を描いた『真夏の航海』。カポーティ作品に親しんではいるがこの作品は未だ読んだことがないという人も、カポーティを読んだことがないという人も、一度手に取ってみてほしい作品です。


【ブログ内関連記事】
山川方夫『夏の葬列』―非日本的な夏の風景 2013年8月14日
夏に読みたい小説・私的10撰 2014年7月8日


真夏の航海
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by hitsujigusa | 2014-08-24 01:20 | 小説 | Trackback | Comments(0)