c0309082_1402574.jpg


【収録作】
「水の片鱗」
「管財人のなやみ」
「鬼水仙」
「南の島へ」
「春のガラス箱」


 7月も最終日となり、夏の盛りである8月が訪れようとしています。そんな8月の最初の日、8月1日は水の日です。水の日というのは国際的なものと国内的なものと二つあって、国連が決めた「世界水の日」は3月22日ですが、日本国内では旧国土庁が1977年に決めた「水の日」が8月1日ということになっています。
 ということで、今回はタイトルに“水”という言葉が入っている漫画、『水の片鱗 マクグラン画廊』をご紹介したいと思います。

 坂田靖子さんの『水の片鱗 マクグラン画廊』は画廊の経営者マクグランを主人公とした「マクグラン画廊」シリーズの4編と、それとは全く別の読み切り作品「春のガラス箱」を収録した作品集です。この記事では「マクグラン画廊」シリーズについてのみ、書いていきます。
 「マクグラン画廊」シリーズは「花模様の迷路」に始まり、「南の島へ」で幕を閉じる7作のシリーズで、白泉社から出版されている『水の片鱗』にはそのうち後半の4作が収められています。一方で、前半の3作は早川書房から出版されている『花模様の迷路』に収められていて、同じシリーズなのにバラバラの出版社に分かれています。ただ、同じシリーズといっても1話完結型なので、これらの2冊を別々に読んでも十分楽しめます。
 とはいえ、やはり1つのシリーズなので、『水の片鱗』に入っていない前半の3作も含め、「マクグラン画廊」シリーズ全体をざっくりと見渡してみたいと思います。


「花模様の迷路」
 美術商マクグランは上客のベック氏に依頼され、ある貴族の庭にあるという噴水の彫刻を見に行く。ベック氏の話によればその彫刻はミケランジェロ作とのことだったが、実際はどこにでもあるような普通の彫刻だった。しかしベック氏はその彫刻を買い取ると言い、マクグランは渋々その交渉に赴く。屋敷と庭園の持ち主であるクラウトン卿と息子は快諾するが、クラウトン卿の甥で同居している青年パトリックは、彫刻を買い取るというマクグランの申し出に妙な反応を見せて――。
 迷路のある重層的な庭を舞台に繰り広げられる人間ドラマ。一見大した代物ではない彫刻の売買話をきっかけに、貴族の叔父といとこに遠慮して生きる一人の青年の心に立ったさざ波を、“庭”というモチーフとうまく絡めながら描いていて、古き良きイギリスの雰囲気を存分に味わえる一編です。

「天空の銘」
 ある日、マクグランの事務所にアラブ人のモハマド・サラームと名乗る男が訪れる。サラーム氏は自分の召使いが金銀の細工や宝石が施された表紙付きの教典を盗んで逃げたのでそれをマクグランに見つけ出してほしいと言い、前金として宝石を残して去っていった。マクグランはさっそくその教典らしきものが最近の競売に出品されていないか調べるが――。
 謎のアラブ人によって持ち込まれた“教典”を巡る不可思議な事件にマクグランが巻き込まれる話で、ドタバタ劇的な面もありつつ、次々に起こる奇妙な出来事に張り巡らされた巧妙な伏線が組み合わさった、読みごたえのあるミステリーとなっています。また、キーパーソンとなる人物がアラブ人ということで、イスラム美術が重要なモチーフともなっていて、美術をテーマにしたシリーズならではの魅力が詰まった作品ですね。

「白い葡萄」
 田舎町を訪れていたマクグランは、偶然古道具屋で雨宿りをする。マクグランが美術商であることを知った古道具屋の主人は相当に古びた葡萄の絵の鑑定をマクグランに依頼する。絵としては価値は低かったが、雨宿りのお礼にマクグランは葡萄の絵を買い取る。しかし、その絵を上客のベック氏が買いたいと言い出して――。
 由来のわからない不気味な葡萄の絵によって引き起こされる幽霊騒動、そして絵について何かを知っていそうなわけあり風の男など、いくつもの謎が積み重なりまた謎を呼ぶほんのりホラー風味のミステリーです。一つの絵に秘められた歴史、記憶、人間の想いにまつわる物語でもあり、読後感が切ない作品です。

「水の片鱗」
 マクグランの友人クレイトン・カサウェイは幼い頃亡くなったと思っていた妹がヨークシャーの僧院にいると聞き、同じところに買い付けの用があったマクグランとともに僧院を訪ねる。しかし、妹はすでに去ったあとで、しかも妹が商売女のような暮らしをしていたと知り――。
 ミステリアスな女性を巡る物語ですが、「天空の銘」や「白い葡萄」のようにマクグランが問題解決に臨むというよりは、偶然のいきさつから真実にたどり着く「花模様の迷路」に近い雰囲気でしょうか。こちらは“水”をモチーフに、田舎の荒れ果てた僧院や謎の画家集団など、どこかもの悲しい空気感が印象的な一編です。

「管財人のなやみ」
 マクグランの得意客であるベック氏が結婚を考えているという。マクグランはベック氏に彼女への贈り物を探すよう頼まれ快く引き受けるが、ベック氏の管財人であるアスキンズ弁護士はその彼女が寄席の踊り子というベック氏と不釣り合いの女性であること、金目当ての結婚と考えられることを理由に、二人の結婚に難色を示す。マクグランはベック氏の結婚相手であるミス・タリントンを訪ね、下町の寄席に向かうが――。
 シリーズの準レギュラーともいえるベック氏の結婚騒動を描いた喜劇。終始明るく陽気、コミカルで、美術を愛するベック氏の魅力満載、そして常にベック氏に振り回されつつも、なぜか憎めずついつい乗せられて協力してしまうマクグランのキャラクターが存分に生かされた楽しい作品になっています。

「鬼水仙」
 ある日、マクグラン画廊のウィンドウに飾られた絵画を食い入るように見つめる初老の婦人が現れる。マクグランは婦人に絵を勧めるが、婦人は金銭的なことを理由に絵を諦めて帰っていった。しかしその夜、マクグランが帰り支度をしているとその婦人が人目を忍びながら画廊にこっそりと入り込み、なんと目当ての絵を盗もうとし――。
 一見どこにでもいそうな普通の女性がマクグラン画廊に盗みに入るといういきなり物騒な形で幕を開ける作品ですが、実際はかつて憧れた亡き男性を想い続ける初老の女性のロマンティックなラブストーリーとなっています。その中にもシリーズ特有の思いがけぬ方向へ転がっていくミステリー的要素もしっかりあって、短編でありながらもひとりの人間の人生の悲喜こもごもが凝縮されていますね。

「南の島へ」
 マクグラン画廊で売り出したばかりの南方の不気味な仮面。芸術品とはいえないその仮面を、なぜか思いつめたように見つめる一人の青年がいた。マクグラン画廊のスタッフであるミス・モーガンはその青年が気になって仕方がなく青年にわけを訊くと、彼は以前南方の島の娘と結婚しており、この仮面はその島の神様なのだと話して――。
 ある美術品(この場合は仮面という民芸品ですが)に並々ならぬ想いを抱く人物の物語という点ではシリーズの定番ですが、この作品が珍しいのはたびたび脇役として登場してきたミス・モーガンが語り手的な役割を果たしていることです。南の島からはるばるイギリスのロンドンまでやって来た仮面と、その南の島に行きたいのに行けない青年とのちょっぴり不思議なつながりとは……。ここでもなぜかベック氏が予想外の働きをします。


 というのが「マクグラン画廊」シリーズの全容です。改めてまとめますと、「花模様の迷路」から「白い葡萄」までが早川書房刊の『花模様の迷路』に、「水の片鱗」から「南の島へ」までが白泉社刊の『水の片鱗』に収められています。
 ここで作者の坂田靖子さんについておさらい。
 坂田靖子さんは大阪生まれ、金沢育ちの漫画家です。1975年に『花とゆめ』掲載の「結婚狂騒曲」でデビューし、以降もさまざまな漫画誌で活躍しています(詳細はデビュー40周年を記念して出版された特集本『坂田靖子 ふしぎの国のマンガ描き』をご参考下さい)。
 代表作は10年近くに渡って描かれた「バジル氏の優雅な生活」シリーズ。「バジル氏~」はイギリスが最も華やかで栄光に満ちていた19世紀のヴィクトリア朝時代が舞台。首都ロンドンに住む貴族バジル・ウォーレン氏の身の回りで起こるささやかな出来事から犯罪めいた事件まで、大小色とりどりの騒動にバジル氏とその召使いや友人たちが巻き込まれつつも知恵を使って解決していく物語です。
 坂田さんの漫画には、こうした古き良きヨーロッパの習俗や文化、風土を取り入れたものが多くあります。また、昔話や童話に材を取ったようなファンタジックな作品も多々あり、そこから発展してSFチックな漫画も手がけていて、簡単にジャンルで一括りできない、本当に多岐に渡る漫画家です。
 そして何より特徴的なのがその著作の多さで、主に短編やショート・ショートを手がけているため必然的に数も多く、一方スパンの長いシリーズものというのはそんなに多くないので、その分誰もが知るというよりは、知る人ぞ知る漫画家、になっているのかもしれません。ですが、大作ではなく小品を積み重ねているからこそ、小品の中に人間の人生の機微や悲喜をぎゅっと凝縮して描くことに長けていて、そこにはまるで長編かと見まごうような密度の濃さがあるのですが、でも形式は短編なのでサラッと読めてしまう気軽さがあり、そうした中身と外見のギャップみたいなものが、坂田さんを類い稀なる似るものぞなき漫画家にしているのかなと思います。

 さて、閑話休題して「マクグラン画廊」に戻ります。
 「マクグラン画廊」はイギリスのロンドンが舞台です。時代設定は異なりますが、イギリスものという意味では「バジル氏~」の系譜上にあるといえます。ですが、「バジル氏~」と比べるとよりコメディ的要素が強く、そもそも軽妙でウィットに富んだタッチというのは坂田漫画の最大の魅力、得意技なのですが、それが「マクグラン画廊」では前面に押し出されています。しかしただライトなだけかというと決してそんなことはありません。人間の愚かさや悲喜劇を斜めに見るちょっぴりシニカルで冷めた目線あり、人間の心理を鋭くとらえたささやかだけれども緻密な人物描写ありで、軽妙であるというのと、ただ軽いというのとは違うのだなと感じさせられます。
 何よりこのシリーズにおいて重要なモチーフ、陰の主役ともいえるのは美術品でしょう。ほとんどの事件、騒動がマクグランが出会った美術品に端を発するわけですが、その美術品にリアリティがなければ、いくらお話がおもしろくても“美術商のハナシ”としては嘘っぽくなってしまったのではないかと思います。ベルニーニ風の彫刻、15世紀のイスラムの装丁付き教典、グィネヴィア王妃と騎士たちの絵画、南太平洋の島の仮面――。知識に裏付けされたものがあるからこそ描かれるものにもリアリティが漂うのだと思いますし、作者の世界の文化や歴史に対する確かな理解が、物語にも説得力を与えているのでしょう。

 でも、何といっても「マクグラン画廊」の軽妙で愉快な空気感を作り出しているのは、生き生きとした登場人物たちです。
 最も強烈で個性的なキャラクターは、マクグラン画廊の一番の顧客であるベックさんです。ベックさんは大金持ちで、ラファエロ好きの美術愛好家。しかし美術品を見る目はあまりなく、無名の画家も、偉大な巨匠も、高貴な芸術品も、陳腐な骨董品も分け隔てなく愛する変わり者です。マクグランはこのベックさんの依頼によってしばしば面倒くさい騒動に巻き込まれるわけですが、にもかかわらずベックさんは憎めない存在であり続けます。ベックさんは作り手が有名であるとか無名であるとかに関係なく自分が良いと思ったものは何でもホイホイ買ってしまう人で、その分他者から見れば悪趣味ともとらえられかねないのですが、だからこそ金額や名前に惑わされることなく心から美しいと感じたものをこよなく愛するピュアな心の持ち主という人柄がにじみ出ていて、それが彼が愛すべきキャラクターとなっている最大の要因だと思います。
 一方で主人公のマクグランはいたって普通の人物です。彼は毎度騒動の巻き添えになるわけですが、彼が自分自身で積極的に関わることはほぼありません。むしろ嫌々、渋々面倒くさい仕事を引き受けてしまうのです。が、面倒くさがりながらもついつい首を突っ込んでしまうというところがマクグランの魅力で、これが自ら能動的に事件を解決しよう!という主人公だと、まるで正義の味方か刑事かなんかの熱血物語になってしまうところですが、騒動の嵐の中にいても終始傍観者的なドライさを失わないマクグランだからこそ、この物語自体も熱すぎず冷たすぎず、ちょうど良い温かさの物語になっているのでしょう。
 傍観者、というと悪く聞こえるかもしれませんが、言い方を変えるならやっぱり“普通の人”ということです。普通の人だからこそ突拍子もない出来事に出くわすとそれをどんと構えて冷静に受け入れることができず、慌てふためいたりパニックになったりし、当事者なのにどこか当事者になりきれず自分の身に起きていることではないような心持ちになってしまう。それこそが普通の人らしさであり、まさにマクグランはそんな人なのです。他方で、混乱しつつもあくまで美術商として自分の仕事を全うしようとするまじめさも大いにあり(時に不まじめさが顔をのぞかせますがそれも普通の人なら普通のことですね)、いろんな意味でとことん貫かれている主人公の普通さというのが、このシリーズのポッと心が温まるような空気感を作り出しています。

 最後になりましたが、いわずもがな絵も「マクグラン画廊」のおもしろさを支える魅力の一つです。坂田さんの絵は精密に描き込むタイプの絵ではありませんが、余計な線を排除した簡潔な絵からはゆとりが感じられて、それもまたシリーズののほほんとした雰囲気を伝えています。逆に美術品に関してはデフォルメされている他の風景とは対照的にしっかりリアルに描かれていたり、夜のシーンの暗闇の濃さだったり、濃密な部分と余白の部分にちゃんとメリハリがつけられていて、シンプルな絵柄ではあるものの、英国の情緒を繊細に描き出しています。

 坂田さんの漫画は陽気なものからシリアスなもの、西洋ものからアジアものからSFから歴史ものまですごい振り幅がありますが、共通して感じるのは垣根の低さです。「マクグラン画廊」もストーリーだけを取り出すとけっこう重いのもありますし、美術商が主人公という専門性の高い設定でもあるのですが、それを誰が読んでもわかりやすく楽しめる作品にしています。ほかの作品を見渡しても古典を基にした話や、サイエンスティックな話、民俗学的な話など豊富な知識を活かしたマニアックな漫画が多々あるのですが、どれも一部のマニアにしかわからないような難解な作品にはなっていません。難解で高尚な知識に裏付けされていても、難解さや高尚さをそのまま表現するのではなく、柔らかく噛み砕いて読み手に提供してくれていて、そんな作者本人のソフトな物腰というのが、描かれる漫画の開放感、誰でも受け入れてくれる懐の深さに繋がっているような気がします。
 そんな坂田漫画の魅力がたっぷり詰まった「マクグラン画廊」シリーズ。今回は「水の日」にちなんで『水の片鱗』をメインとして取り上げましたが、順番的にはその前になる『花模様の迷路』、また、ここではシリーズに含めませんでしたが、マクグランが登場する話として「孔雀の庭」(早川書房刊『パエトーン』に収録)という短編もあり(発表順としてはたぶんこれが一番最初)、どれから読んでも全然問題ないと思います。さらに、坂田さんの経歴、作品の数々を振り返る『坂田靖子 ふしぎの国のマンガ描き』という理解がより深まる本もあり、こちらもおすすめです。


水の片鱗―マクグラン画廊 (白泉社文庫)
坂田 靖子
白泉社
売り上げランキング: 364,525

花模様の迷路 (ハヤカワ文庫 JA (559))
坂田 靖子
早川書房
売り上げランキング: 573,425

パエトーン (ハヤカワ文庫 JA (567))
坂田 靖子
早川書房
売り上げランキング: 626,748

坂田靖子 ふしぎの国のマンガ描き
坂田靖子
河出書房新社
売り上げランキング: 123,345

[PR]
by hitsujigusa | 2016-07-31 01:35 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

ドミトリーともきんす


【収録作】
「球面世界」
「ドミトリーともきんす」
「Tさん(東京在住)は、この夏、盆踊りが、おどりたい。」


 今回取り上げるのは漫画家・高野文子さんの『ドミトリーともきんす』。なぜ今この作品かというと、この作品に取り上げられている科学者・湯川秀樹氏の誕生日が1月23日なので、多少強引ですがそれに絡めてこの漫画を紹介しようという魂胆です。
 この本には3つの作品が収録されていますが、その核をなすのが表題作「ドミトリーともきんす」です。この漫画では湯川氏始め、朝永振一郎氏、牧野富太郎氏、中谷宇吉郎氏という著名な科学者4人が取り上げられています。といっても堅苦しい専門書ではありません。とも子ときん子の母娘が営む学生寮“ドミトリーともきんす”に4人の寮生―若き湯川氏、朝永氏、牧野氏、中谷氏―が暮らしているという設定の下、彼らが一般向けに残した随筆を紹介する、読書案内漫画です。

 「ドミトリーともきんす」はプロローグと11の短編の連なりで成り立っています。短編1作ごとに1人の科学者がフィーチャーされ、その科学者の著作の内容に沿った形でお話が繰り広げられます。お話は明確なストーリー性があるものではなく、それぞれの科学者の言葉を通して、科学の世界をのぞき見できるような漫画になっています。
 作者の高野さんは「ドミトリーともきんす」を書こうと思った理由について、「実用に向く、そういう仕事はできないのかな。」と述べ、その時に気を付けたこととして「まずは、絵を、気持ちを込めずに描くけいこをしました。(中略)自分のことから離れて描く、そういう描き方をしてみようと思いました。道具は、製図ペンを使いました。頭からしっぽまで、同じ太さが引けるペンは、じつに静かな絵が描けます。」と語っています。
 実際、「ドミトリーともきんす」の絵は無駄が削ぎ落とされた非常にシンプルな絵になっています。凹凸感や奥行き感のない絵は、四角や三角などの幾何学模様で構成されたグラフィックデザインのようにも見え、まさに“静かな絵”と言えます。
 そして、涼しい風が、作中には吹いています。この“涼しい風”という表現は、高野さんが自然科学の本を読んだ時の読後感としてあとがきに記した言葉ですが、本の帯では「科学の本ってヒンヤリして気持ちがいい」とも表わされています。涼しさもヒンヤリも、この漫画の空気感を表現するのにぴったりだと思います。でも、それは科学に相対する時にイメージする理系のクールな感じとは、全然違うものなのです。
 たとえば、雪と氷の研究の第一人者として知られる中谷宇吉郎氏の「天地創造の話」を取り上げた「5 ナカヤ君 コタツです」では、昭和新山の誕生を目にした中谷氏の心からの感動の言葉が紹介されています。

 今眼の前に見るこの山の姿は、まことに美と力との象徴である。その美は人界にない妖しい光につつまれている。その力にも闘争や苦悩の色が微塵もなく、それはただ純粋なる力の顕現である。

 計算や思惑など入り込む余地なく、ただただそうあるべくしてそうあるだけの自然現象がなせる美。中谷氏はそれを科学の目でというよりも、おもしろいものを発見した子どものような目で見、素直な感想を書き記しています。
 このエピソードに限らず、ほかの湯川氏、朝永氏、牧野氏をフィーチャーした話でも同じく素直な感動や興味関心を持って世界を見つめる科学者たちの姿が漫画化されています。著名な科学者をかわいらしくデフォルメした学生のキャラクターにするというのは一見突飛なことにも思えますが、そうして描かれた科学者たちの姿や言葉を見ると、優れた科学者というのは一様にして目の前で起きている事象や日常のなにげないワンシーンにさえも不思議を見出し、素直に受け止める人々なんだなというのが伝わってきて、それは物事をありのままに受け止める子どもととてもよく似ていて、最も子どもの心を持ち続けている大人が、科学者というものなんだなと感じさせられます。
 ですが、全ての科学者がそうというわけではないでしょう。中にはお金儲けだったり名誉だったりが先立ってしまう科学者もいるでしょう。そういう人たちは子どもの心の持ち主とは言えません。一方で、「ドミトリーともきんす」に登場する4人は紛れもなく子どもの心を持ち続けた科学者です。作中で紹介されている彼らの文章を読んでも、そのことがありありとわかります。子どもは自分の心のおもむくままに動きます。ゆえにその行動には計算や思惑がなく、その姿はなんのてらいもなく清々しいものです。
 そして、自らの好奇心のままに動き、学問を究めた4人の科学者たちもまた、同じように清々しさに満ちています。その清々しさは子どもの心を持っているからというのと同時に、数字や空間、自然現象といった人間の力ではどうしようもない、動かしがたい世界の真理と対峙する人間ならではの謙虚さが根底に流れているからではないかと思います。自然が作り出したものの前では人間は敬服するしかない。そんな謙虚な姿勢を保ちつつ、心では燃えたぎるような熱を持って世界の真理と向き合い続ける――。そうした彼らの在り方こそが、熱すぎず冷たすぎない、高野さんいうところの“涼しい風”、“ヒンヤリ”の正体なのではないでしょうか。

 「ドミトリーともきんす」は湯川氏の「詩と科学―子どもたちのために―」という短文をフィーチャーした「11 詩の朗読」で締めくくられます。

詩と科学遠いようで近い。近いようで遠い。(中略)しかしなんだか近いようにも思われる。どうしてだろうか。出発点が同じだからだ。どちらも自然を見ること聞くことからはじまる。バラの花の香をかぎ、その美しさをたたえる気持ちと、花の形状をしらべようとする気持ちのあいだには、大きなへだたりはない。しかしバラの詩をつくるのと、顕微鏡をもちだすのとではもう方向がちがっている。科学はどんどん進歩して、たくさんの専門にわかれてしまった。いろんな器械がごちゃごちゃにならんでいる実験室、わけのわからぬ数式がどこまでもつづく書物。もうそこには詩の影も形も見えない。科学者とはつまり詩をわすれた人である。詩を失った人である。そんなら一度失った詩は、もはや科学の世界にはもどってこないのだろうか。詩というものは気まぐれなものである。(中略)ごみごみした実験室の片隅で、科学者はときどき思いがけない詩を発見するのである。しろうと目にはちっともおもしろくない数式の中に、専門家は目に見える花よりもずっとずっと美しい自然の姿をありありとみとめるのである。

 科学という学問の真理を最も正確に伝える秀逸な文章だと思います。正直私は勉強としての理科や数学は大っ嫌いな人間ですが、科学の中に潜む詩というのはなんとなくわかる気がします。そして、湯川、朝永、牧野、中谷の4氏は、まさにその詩にたどり着いた科学界の詩人であり、彼らが残したいくつもの言葉たちは、その一つひとつが唯一無二の詩なのだといえます。
 遠い存在のように思える科学、そして科学者を身近に感じさせてくれる『ドミトリーともきんす』。科学の本を手に取るきっかけとしてはもちろんのこと、この本自体も、一回読んで強烈なインパクトを与える本ではありませんが、手元に置き何度も読むうちに、読み手の体と心に染み込んで、ささやかながらも毎日の助けになってくれる良作だと思います。


:記事内の青字の部分は高野文子著『ドミトリーともきんす』(中央公論新社、2014年9月)から引用させていただきました。


ドミトリーともきんす
高野 文子
中央公論新社
売り上げランキング: 23,501

[PR]
by hitsujigusa | 2016-01-21 16:28 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

A-A’ (小学館文庫)


【収録作】
「A‐A´」
「4/4 カトルカース」
「X+Y〈前編〉」
「X+Y〈後編〉」
「ユニコーンの夢」
「6月の声」
「きみは美しい瞳」


 9月12日は日本が独自に制定した宇宙の日です。なぜ9月12日かというと、宇宙飛行士の毛利衛さんがスペースシャトルで宇宙へ飛び立ったのが9月12日だからだそうです。
 そんな記念日に合わせて今回取り上げるのは少女漫画家・萩尾望都さんの『A‐A´』(エー・エーダッシュ)です。少女漫画の母と言える萩尾さんは、「11人いる!」「スター・レッド」「銀の三角」「マージナル」など数多くのSF作品を手がけている少女漫画界におけるSFのパイオニアでもあります。『A‐A´』はSF作品集で、「A‐A´」「4/4 カトルカース」「X+Y」の3編で成り立っているSF連作集と、そのほかのSF作品3編が収録されています。この記事では「A-A´」「4/4 カトルカース」「X+Y」のシリーズについてのみ書いていきます。

 「A‐A´」「4/4 カトルカース」「X+Y」は“一角獣種シリーズ”といわれる同じ世界観の下に描かれたシリーズ作品で、21世紀初頭に宇宙航行用に開発された人工の遺伝変異種である一角獣種がどの作品にもキーパーソンとして登場し、繋がりを持たせています。一角獣とは伝説上の生き物ユニコーンのことですが、一角獣種とはユニコーンのような特徴を持った人間。見た目は頭部が少し盛り上がり、その部分の髪がたてがみ風で赤いメッシュになっていて、性格的な特徴としては基本的に知能は高いものの、感情表現がヘタで、注意力に乏しく、極端にストレスに弱いという扱いが難しい珍種として描かれています。シリーズでは各作品に一人ずつ、計3人の一角獣種のキャラクターが登場し、一角獣種と一角獣種を巡る人々との宇宙を舞台にしたドラマが繰り広げられます。

 各話はそれぞれ独立した話になっており、ざっくりとストーリーを説明しますと、「A‐A´」の舞台はプロキシマ第5惑星“ムンゼル”。事故率が高い宇宙開発の現場では普通にクローンが活用され、宇宙開発プロジェクトに参加する人間はもし死んでもすぐにクローンが再生されることになっている。ムンゼルでも1か月前に事故死した女性スタッフ、アデラド・リーのクローンが再び地球から派遣されるが、ムンゼルでの開発に関わる前に作製されたクローンにはムンゼルで生活していた3年間の記憶は当然なく、新たに人間関係を構築しなければならなくなったほかのスタッフたちはアデラドであってアデラドでない彼女に戸惑う。アデラドの恋人であったレグも動揺を隠せず――。
 タイトルの「A‐A´」とは“A”=オリジナルのアデラドと、数学用語で類似したものを示す´(ダッシュ)の付いた“A´”=クローンのアデラドを表しています。「A‐A´」は1981年に発表された作品ですが、クローンが引き起こす心の問題を描いていて、単にクローンを取り上げるだけでなくその先の課題まで見通す萩尾先生の先見性にはただただ驚かされます。本来なら死んでしまった人はもう戻らなくて、残された人々は弔うしかないのですが、死んでしまった人が戻ってきたらどうしたらいいのか、蘇った死者(しかし別の個体)を迎える側はどういう方向に心を持っていったらいいのか、複雑な心のドラマになっています。
 クローンを題材にした作品は多くありますが、こちらはクローンそのものよりもクローンを巡る心の動きに重点を置いています。そういった意味では映画化もされた梶尾真治さんのSF小説『黄泉がえり』を思い起こさせる部分もありますが(『黄泉がえり』は1999年発表)、『黄泉がえり』は死者がそのまま蘇るのに対し、「A‐A´」はあくまで蘇るのは別の個体で一部受け継がれない記憶もあり、同じ人間なのに別人というところがポイントになっています。どれだけ科学が発達してたとえ人間自体が進化しても心がそれに追いついていかないというストーリーは、私たち現代人にとっても全く他人事でない、すごく現実的な話だなと思いますね。

 2作目の「4/4 カトルカース」は木星の第1衛星イオの第1実験都市が舞台。人工的な改良によって作られたカレイドスコープ・アイ(万華鏡のようにキラキラとした目で赤外線が見える)を持つ15歳の少年モリは、かつて故郷である地球のペルーで狂信的なサバト(魔女や悪魔崇拝の集会)に魔の目を持つとされて生け贄にされかかり、それがきっかけで念動力が発動、現在はテレパシストで鳥の研究者でもあるママミア女史の下でESPの訓練を受けている。しかし、モリの力は強すぎてイオに来てから8年経つ今でも自分で力をコントロールできない。そんな時、モリは新たに実験都市にやって来たサザーン博士の養女である一角獣種の少女トリルと出会う。ほとんど感情を見せず、言葉も満足に話せないトリルだが、なぜかモリはトリルと一緒にいるとスムーズに念力が使えてしまう。一方、一角獣種に陶酔するサザーン博士はさらに優れた一角獣種を作るためにトリルの卵子を使って遺伝子実験をしていて――。
 超能力を持つ少年と一角獣種の少女との心の交流を描いた作品。ここでも重要なテーマとなるのは“心”、“感情”で、元々コンピューターを扱うために開発された一角獣種は感情などないと言うサザーン博士に対し、モリは確かにトリルの感情を感じ取り、心を通わせたと感じます。また、トリルは同じ一角獣種でも「A-A´」のアデラドとは違って未熟であるがゆえに実験対象として博士に都合よく扱われていて、同様に超能力のせいで暗い幼少期を送ったモリとも相まって、科学が生む陰が物語全体に切ない悲哀を漂わせています。

 前編と後編に分かれる「X+Y」は一角獣種の少年タクトと「4/4 カトルカース」の主人公だったモリの一風変わった恋愛話。地球の宇宙開発研究チーム「アレルギー・カルチャー」に所属するタクトは、火星の建国80周年記念の火星改造計画案を決める学会にチームの一員として参加するため火星に行くことに。しかしその直前に行った検査によってタクトが“XX”、つまり遺伝子的には女性であることが判明。が、タクトはそのことに特別関心を抱かず、今後女性になるための処置も拒否する。そうして火星に旅立ったタクトは、たまたま行われていたカイト・レースに参加する大学生モリと出会い――。
 ヒトの性染色体はオスが“XY”、メスが“XX”の組み合わせで構成されますが、タイトルは女と男というのを象徴的に表してますね。「4/4 カトルカース」からは4年後という設定で、モリは19歳。相変わらず能力をうまくコントロールできないでいます。そこにトリルと同じ一角獣種のタクトが現れ、しかもタクトと一緒にいるとトリルと一緒にいた時のような現象が起きてしまい、さらに男であるタクトに恋愛感情を抱いてしまう始末。しかし実際はタクトは遺伝子上は女で、という性別と恋愛の問題が絡んで、「4/4 カトルカース」と比べるとユーモア溢れる明るく楽しい雰囲気となってます。軸となるのはタクトの話ですが、タクトによってモリが救済される話でもあり、第1作、第2作と切ない展開だったシリーズの完結編として最後にほっとできる作品ですね。

 というのがシリーズの概略ですが、ストーリーが素晴らしいのはもちろんとして、魅力的な物語を支えているのが溢れんばかりのリリシズム、ロマンチシズムです。このシリーズに限ったことではなく萩尾SFならどれでもそうなのですが、ドライで無機質になりがちなSFを巧みな道具立てや抒情的な描写によって、SFの枠を超えた奥深い人間ドラマに仕立てています。
 たとえば一角獣種そのものが伝説上の生き物の姿を借りた神話的で美しい存在ですし、「4/4 カトルカース」ではモリの指導者であるママミアが鳥の研究者ということで、熱帯のような温室の鳥の孵化場が登場しますし、「X+Y」ではモリがカイト・レースの選手ということで、カイト(凧)の付いたハンググライダーのような乗り物や、三輪車やスクーターにカイトを取り付けた乗り物が登場します。一見SF的でないモチーフ、アイテムを組み合わせることで物語に効果的なアクセントを加え、それでいて非SF的モチーフだけがヘンに浮いた感じになることもなく、見事に物語の世界観、雰囲気と一体化してロマンを生み出しています。

c0309082_1443056.jpg


 上のシーンはタクトとモリが土星の輪の上をカイト付きスクーターで飛行するという誰もがワクワクするような場面ですが、一見空想的、でも実際は非常にSF的であるというシーンを本当にファンタジックに美しく描いています。
 こんなふうに絵的にも抒情的な作品ですが、もちろん宇宙船や近未来的な作りの建物も多く出てきます。が、たとえば映画の『スター・ウォーズ』に出てくる近未来都市みたいないかにもTHE宇宙といった感じの光景は意外にさほど描かれてなくて、それよりも舞台となる星の自然だったり建物や乗り物の中から見る宇宙の空の色だったり、風景描写が印象的です。「A‐A´」の惑星ムンゼルの流動氷も「X+Y」のカイトから眺める空と宇宙の境目も、見たことなんてあるはずがないんだけれどもなぜか遠い異星の風景という感じがしなくて、むしろノスタルジーさえ憶えます。それは宇宙という場所を単に科学的な空間としてではなく、地球と同じように地があり空があり風が吹く、いわば血の通った場所として描いているから。特別な場所ではなく、私たちが住む世界の一風景として宇宙を描写しているのですね。

 そうした圧倒的な描写力ゆえに、このシリーズは遠い宇宙の彼方のお話……ではなくて、現代の地球から地続き(空続き?)の、宇宙のご近所の星のお話という身近さを感じさせ、あまりSFというジャンルを意識せずに読むことができます。かといってSF色が薄いかというと全くそんなことはなく、難解な専門用語が飛び交う場面もあり、また、「A‐A´」の舞台となるプロキシマや「4/4 カトルカース」の舞台のイオなど宇宙に実在する星も登場します。「X+Y」では上に示したシーンでタクトとモリが“カッシーニの空隙”というところに行こうとしますが、この“カッシーニの空隙”も土星の輪のあいだに本当に存在する隙間のことです。現実の宇宙をベースに、ちゃんとした科学に基づいているからこそ、本当に人間がそこで生きている臨場感に満ちたSFになりえるのでしょうし、登場人物たちの哀しみや喜びや苦しみや葛藤や惑いも、作り話の中の絵空事じゃない、真に迫った心のドラマになっているのだと思います。

 萩尾さんのSFはどれも捨てがたいのですが、その中でも個人的にイチオシのSF作品です。ぜひ、ご覧になってみてください。


:記事内の絵は萩尾望都『A‐A´』(小学館、2003年9月、161頁)から引用させていただきました。

【ブログ内関連記事】
SF小説・私的10撰 2013年10月6日



[PR]
by hitsujigusa | 2015-09-12 00:32 | 漫画 | Trackback | Comments(2)

花図鑑 1 (ハヤカワ文庫JA コミック文庫)


 8月に入りますます暑さ厳しくなってきていますが、もうすぐやって来る8月8日は少女漫画家・清原なつのさんの誕生日です。ということで、清原さんの代表作で、私が清原作品の中で個人的にいちばん好きな『花図鑑』を取り上げたいと思います。なお、清原作品についてはこちらの記事でもう一つの代表作「花岡ちゃんシリーズ」をピックアップしていますので、ご参考ください。

 まず始めに『花図鑑』についてざっくりと説明しますと、女性の恋と性をテーマにしたオムニバス作品集です。早川書房から全2巻で出版されており、全20話(1巻に10話ずつ)で毎作ひとつの花や植物がモチーフになっていますが、それぞれ別個の話で繋がりはなく(一部繋がってる話もあります)、しかし一貫して女性の性の問題を描いています。といってもそんな堅苦しいものではなく、喜劇あり、ファンタジーあり、時代劇あり、SFあり、青春ドラマあり、一作一作趣向を変えながら“性”を巡る女性の心理を繊細に描写していて、一見可愛らしい絵とは裏腹な鋭さ、ドキッとするような視点で、タブー化している女性の性のリアルに大胆に突っ込んでいます。
 ここから一話ずつ簡単なあらすじとともに内容を紹介。


第一話「聖笹百合学園の最期」
 男子禁制の女子校・聖笹百合学園。生徒は年々減る一方で、来年度からの共学化が決定していた。男嫌いで学園の伝統を愛する教師・有栖川は強固に反対するが、生徒会長の花菱松子はどうせ共学になるなら今すぐに校則を改正して男子禁制をやめるべきだと主張して――。
 純潔をモットーにする女子校を舞台に、断固として潔癖を守ろうとする教師と異性交際を認めさせ自由を勝ち取ろうとする(実はこっそり男子と付き合っている)生徒会長とのおかしな攻防を描いた喜劇。おもしろいのは有栖川先生を始めとする“保守派”の裏の顔で、潔癖過ぎるあまりに逆に不純な方向(通学路の監視、少女愛etc)に流れていく姿がシュールかつ皮肉めいていて、でも本人たちは大真面目ゆえにおかしみを誘っていて、ある一方から見ると悲劇、別の一方から見ると喜劇というお手本のようなコメディと言えるかもしれません。

第二話「ばら色の人生」
 女子大生・山科まりこは大学入学を機に、高校時代の予備校講師・佐久間先生と同棲を始める。そんな二人の家にまりこのクラスメイトでおかまの志田君がやってくる。乱暴な彼氏から逃げてきたという志田君は、自分をここに置いてほしいと言い――。
 ちょっと奇妙な三人の同居生活、三角関係を描いたラブストーリー(?)。キーとなるのはおかま(といっても見た目は普通で女装などしているわけではないイケメン風好青年)の志田君で、清原作品にはゲイに限らず中性的な男子がしばしば登場しますが、性別というものが意外に確固たるものではなく、恋という場面においてはあまり関係ないものなんだということを実感させられる。

第三話「雨のカトレア産婦人科」
 重い生理痛に苦しむ川上舞世は小説家志望の書店員。ある日不正出血で産婦人科を訪れた舞世は、医師になっていた幼なじみの山下晶生と再会する。初恋の人との感動の再会もつかの間、診察で舞世は晶生にあそこを見られてしまう。初恋の人に見られたくない部分を見られたショックで舞世は動揺し――。
 あらすじでお分かりのとおり、物語冒頭から久しぶりに会った初恋の人に内診で女子の大事なところを見られてしまうという衝撃的な作品ですが、主人公の揺れる心を通して女性にとっての大切なことを描いていて、コミカルさが前面に出ているものの、けっこうハッとさせられるマジメさもあります。

第四話「いばら姫の逆襲」
 ある城で魔女の呪いによって百年の眠りについた二人のお姫様。眠りから覚めた二人が眠っているあいだの映像を見ると、幾人もの王子たちが二人が目覚めないのをいいことに思うがままに弄んでいた。ショッキングな事実に怒った二人は王子たちを殺す復讐の旅に出て――。
 ヨーロッパ風の世界を舞台にしたファンタジー風作品で(しかしSF風のホログラムも出てくる)、「眠りの森の美女」(グリム童話ではその名も「いばら姫」)を下敷きにしています。お姫さまが眠っているあいだに実は……と、原作で描かれない睡眠中のストーリーを付け加え、見事な発想の転換で元々の物語とは全く違う復讐物語に仕上げてます。

第五話「水の器」
 女子高生・多麻子の悩みの種は父親が海外赴任になったため同居している同い年のいとこ・喜久子だ。真面目で地味な多麻子に対し、美人の喜久子は複数の男と同時に付き合う魔性の女。自分とは正反対の喜久子にイライラを募らせる多麻子だったが、ある日喜久子が妊娠したかもしれないと言いだし――。
 女子高生の妊娠という、『花図鑑』の中でも比較的シンプルなモチーフをストレートに扱った作品。しかし描き方は清原漫画らしく決して感傷的にならず、デリケートな問題として取り上げられやすいテーマをライトかつドライに、しかし鋭く真理を突いてます。“水の器”=子宮のことだと思われますが(たぶん)、女性特有の女性同士でしか理解できないであろう皮膚感覚みたいなものを巧みにとらえていて、女の怖さみたいなものも感じられる。

第六話「菜の花電車」
 家を出て下宿生活をすることにした高校生・吉岡。下宿屋には謎めいた大学生・橋場、そしてうら若き未亡人の大家・美千子がいた。かつて16歳の時に60歳の男と財産目当ての結婚をしたというミステリアスな美千子に惹かれていく吉岡だったが――。
 花畑の中にぽつんと建つ洋館の下宿屋、若くして年上の夫を亡くした美女、家庭の事情から逃げてきた少年というノスタルジックかつ古典的な設定で、『花図鑑』の中では異質な感じですが、リリカルさという点では清原さんの真骨頂でもあって、一方でそのリリカルさを客観的な目で見つめるドライな視点というのも確実にあって、そういったバランス感覚の良さが際立って発揮されてる作品ですね。

第七話「金木犀の星」
 不正入試のアルバイトをする17歳の少年・岩村香南(かなん)。ある日一人暮らしをする部屋に間違い電話らしい電話がかかってくる。声の主は若い女性で、次の日も同じ女性から電話がかかってきて――。
 主人公の少年と電話の向こうの謎の女性との会話でほぼ構成されていて、セクシュアリティな色は薄め。“電話”、“声”というモチーフを効果的に用いていて、顔が見えない会話劇のみで成立する恋愛を描いてます。

第八話「桜守姫秘聞」
 昔々あるところに桜守姫という笑わないお姫様がいた。心配した父親は姫に喜びを教えた者を結婚相手にするというおふれを出す。おふれを受けて由緒正しい家柄の若者たちが大勢集まり、体力テストや知恵比べを経て一人の若者に絞られるが――。
 『花図鑑』唯一の時代劇。わがままな姫を巡る話ですが、女性にとっての幸せとは何か、という哲学的な問いを問いかける物語でもあります。桜が重要なモチーフとして登場し、民俗学的なロマンもふんだんに盛り込まれてます。

第九話「かえで物語」
 レスリング部に所属する女子高生・佐田るちあの初恋は小学生の頃何度も対戦した紅葉かえでという少年。かえではその後海外に引っ越してしまい一度も会っていない。そんなある日初恋の少年と同姓同名の転入生(美少女)がレスリング部に入部してきて――。
 ネタバレしてしまうとるちあの初恋の少年と転入生の美少女は同一人物なのですが、その種明かしはぜひ読んでみてください。女と女、女と男の性別を巡る複雑な心理を描いた話です。

第十話「世界爺―セコイア―」
 健康器具メーカーの社長・山ノ原政己(56)は毎日のように世界が滅びる夢にうなされていた。そんなある日山ノ原は19年前に亡くなった妻に瓜二つの少女に出会い一目ぼれする。久しぶりに参加した俳句サークルで祖母の代理で来ていた少女=鈴木ひとみ(19)と再会すると、山ノ原の気持ちはますます高まって――。
 いい年したおじさんの恋を描いた話ですが、年老いていく男の悲哀がメインテーマとも言えます。60歳と19歳の恋愛という一見ありえなさそうな設定ですが、現実にもこれくらいの歳の差婚があることを思うと、やけにリアルな感じもします。

第十一話「カサブランカダンディ」
 女子大生の村井季楽は会社員の小田切と結婚することが決まり、着々と結婚式の準備を進めていた。その結婚式で使うブーケを小田切の高校時代の友人であるフラワーデザイナー・奥平阿州が作ってくれることになり、季楽は奥平と顔合わせをするが――。
 マリッジブルーに悩まされるヒロインがフィアンセの友人と出会って……というあらすじだけ聞くとありきたりにも思えますが、ブーケが全編に渡って重要なモチーフとなっていて、新鮮なアイテムづかいが光る作品です。

第十二話「レディーズ・ベッドストロウ」
 大学生の馨、高志、かれんの三人は仲の良い友達だったが、卒業前にかれんが馨と高志のどちらを選ぶか決めることになっていた。しかし馨はそんなかれんのはっきりしない態度に焦れて強引に肉体関係を迫ってしまう。翌日、登山へ出かけた三人だったが、その途中でかれんが滑落してしまい――。
 女一人、男二人の三角関係を描いたものですが、ヒロインは早々に事故で植物状態になり、本心を確かめることができなくなってしまう。レイプまがいのことをした男の心情をメインに話は進み、セックス、リハビリ、料理と“からだ”にまつわることを描きつつ、“こころ”の問題に迫っていきます。

第十三話「雨のカトレア産婦人科Ⅱ」
 産婦人科医の夫・晶生と結婚した小説家志望の主婦・舞世の妊娠が判明し、舞世はさっそく地中海でイルカと泳ぎながら出産したいと言い晶生を困らせる。どうしても地中海で出産したい舞世は晶生にスキューバダイビングのライセンスと船舶免許とイルカと仲良くする方法を身につけることを求めるが、実は晶生は水が苦手で――。
 第三話「雨のカトレア産婦人科」の続編。夫婦となった二人ですが、想像力(妄想力?)豊かな舞世に振り回される晶生。かなりはちゃめちゃだけど、なんだか憎めないキャラクター描写がおみごとです。

第十四話「梨花ちゃんの田園のユウウツ」
 受験を目前に控えた女子高生・真田梨花。家では両親、兄夫婦と同居しているが、兄夫婦はなかなか子どもを授からず家の中は微妙な雰囲気に。窮屈さと苛立ちを募らせる梨花は図書館で勉強することにするが、机の下でペッティングする高校生のカップルを目撃して――。
 同じ屋根の下で子作りに励む兄夫婦、図書館でひそやかに性交にふけるカップル。周囲の“性的なモノ”に対して違和感、嫌悪感を抑えきれない梨花が、さまざまな出来事を経て“性”を受け入れ、自分のものにしていくさまを描いています。ちなみに、梨花の家は梨農家で、梨を人工授粉させる場面がテーマともうまく絡んで色を添えます。

第十五話「梨花ちゃんの都会のユウウツ」
 大学に進学した真田梨花は実家を出て寮暮らしをすることに。その大学でかつて地元の図書館でペッティングしていた赤星有実と再会を果たす。取りやすい単位や試験問題の情報収集を指示するマイペースな有実に振り回される梨花。図書館で会っていた彼氏とは別れたという有実だが――。
 第十四話の続き、大学生編です。十四話では脇役として登場したカップルの彼女の方が再登場し、梨花と親交を深め、あのペッティングの理由も明かされます。主人公は梨花ですが、有実がもう一人の主役的存在となって一風変わった恋のドラマが繰り広げられます。

第十六話「じゃんぼらん」
 女子高生の鈴菜は家庭教師の不破先生と付き合っているが、不破先生はぶらりとインドに旅立ってしまう。その後生理が遅れていることに気づいた鈴菜は妊娠を疑うが、先生とは連絡がつかない。同時期、鈴菜が所属する演劇部ではコンクールに出品するための作品を制作していて――。
 女子高生の妊娠というテーマは「水の器」と同じですが、こちらでは主人公が生命、生殖をテーマにした演劇を制作するという展開で、現実(鈴菜の妊娠)と非現実(演劇)の二重構造で進行しながら、少女の葛藤に迫ります。この演劇がなかなかにカゲキで実際にあったらおもしろいだろうなと思います。

第十七話「野アザミの食卓」
 女子高生の桂と幼なじみの享(きょう)は子どもの頃から自然と付き合っている。自分の将来に漠然と不安を感じる享とそんな彼氏の異変に気づく桂。そんなある日、陸上部の萩原君が県大会で桂のために走ると告白してきて――。
 子どもの頃から付き合い続けてマンネリを迎えた幼なじみカップルの話。といってもシリアス系じゃなくて思いっきりコミカル調で、主役二人のキャラクターによって『花図鑑』の中では珍しい明るさ全開という雰囲気です。

第十八話「風の娘―アネモネ―」
 高校1年生の木崎あんぬは入試でトップだったことが災いし、周囲の同級生たちから一目置かれてしまい入学から1か月経っても友達ができない。そんな頃盲腸で入院していて入学に間に合わなかった高津有人が初登校し、あんぬの隣の席に。底抜けに明るい高津に最初は警戒していたあんぬも徐々に打ち解けていって――。
 大人しい少女とあけっぴろげな少年の恋物語。人付き合いにも恋にも臆病な女の子が男の子の力によって変わっていき、表現古いですが大人への階段を上っていくドラマを、40ページ弱にギュッと凝縮していて、短編ながらも長編のような趣き、読みごたえがあります。

第十九話「チューリップの王様」
 17世紀、オランダ。貧しい青年ヤンは裕福な家の娘ピアレットと結婚したかったが、貧乏なため父親に認めてもらえない。そこでヤンは高値で取引される珍しいチューリップの球根を求め、東インド会社の船でオリエントに向かう。しかし、途中で海賊に捕らえられ、ヤンは奴隷としてアラブの王様に買われてしまい――。
 かつてオランダでチューリップ狂時代なるものがあり、チューリップが高価な花としてもてはやされたことはご存知の方も多いでしょうが、そんな時代を背景に、アラブの千夜一夜物語を組み合わせた異国情緒溢れる物語。アラブのハレム(女性が住まう後宮)なんかも出てきたりして、清原漫画特有の抒情性が美しいです。

第二十話「ノリ・メ・タンゲレ」
 多貴子には正人という気の合う恋人がいたが、子どもの頃レイプされた経験によってうまくセックスすることが出来ずにいた。そんなある夜、多貴子とともに寝ていた正人の前に、子どもの姿の多貴子が現れる。子どもの多貴子は正人に自分がセックスできない理由を説明し、「私を愛して」「私を消して」と言い――。
 幼少期のレイプを扱った最終話。“ノリ・メ・タンゲレ”とはキツリフネという花の学名(正式にはインパチェンス・ノリ・タンゲレ)で、元々は聖書の言葉で“私に触れるな”という意味。そのキツリフネが咲き乱れる場所で幼い多貴子は犯されてしまったわけですが、実際に存在する花の名とレイプという出来事とを見事にクロスさせてます。清原さんはあとがき(『花図鑑1』に収録)で、「ノリ・メ・タンゲレ」を書くためにシリーズを書いていたのかもしれないと述べていて、『花図鑑』の集大成にふさわしい、象徴するような物語となっています。


 『花図鑑』には自らの中に潜む“性”に戸惑う少女、女性たちが大勢出てきます。女性にも性への興味、性欲というのは当然あるわけですが、現実には男と違って自らの性をオープンにできず、女子がそういう事柄への興味を示すだけでまるでいやらしいことをしているかのように思われがちです。が、『花図鑑』は真正面から堂々と女子の性を肯定します。いや、肯定というより当然普通にあるものとしてさらりと描いてくれます。そこにはヘンな熱さとか気負った感じはなくて、だからこそ読んでいるこちらも、あ、そういうスタンスでいいんだ、と、背負っていた荷物を地面に降ろした時のようにふっと心が軽くなります。
 また、「花岡ちゃん」の記事にも書きましたが、清原さんは金沢大学薬学部出身で、バリバリ理系の人です。理系の目で描かれる女性の身体の悩みやセックスは科学の話のようで、客観的な視点がところどころに差し挟まれることによって、独特の“清原節”みたいなものが生まれています。
 たとえば「雨のカトレア産婦人科」で主人公の舞世は初恋の相手に大事なところを見られたことに大きなショックを受けますが、しばらくして考え直してこんなふうに自分の気持ちを文章化します。


不思議な場所だった
いつも通る道に異次元世界への隠し扉があるのを示されたみたい
その辺りにあることは知っていたけど
なんとなく決めていた場所とはこころなしかずれていて
扉が開けられた時びっくりした

そこは永遠に皮膚であって体をとりまく壁だと思っていた
扉が叩かれた時そこじゃないっていう気がした
そこじゃないよ

そこは特別の部屋かもしれないけど
いつか だれか大切なお客様をもてなす部屋なのだから
きちんとしておくのは悪いことじゃないわ
部屋をととのえるために入ってもらった家具屋さんや壁紙屋さんガラス屋さんと恋に落ちる時もあるのかもしれない

(清原なつの『花図鑑1』早川書房、2004年3月、107頁)


 女性が自分の身体について(特にセックスに関わる部分について)まじまじと考えることはそうそうないもの。ショックな出来事を自分なりに解釈して前向きにとらえるあっけらかんぶり(タフさ)が印象的なモノローグです。
 また、「じゃんぼらん」では主人公たちが、男が絶滅した女だけの惑星で女一人でも妊娠できるようになるものの、無性生殖の弊害によってさまざまな問題が生じ、女王の娘たちも次々と原因不明の病気にかかり、人工的に作り出したY染色体で生まれた生殖能力を持つ男子と女王の娘とを結婚させようとする、というものすごいストーリーのシナリオを作りますが、ここでもY染色体、無性生殖、遺伝子、卵子と精子の減数分裂など、とても少女漫画らしからぬ専門用語が飛び交い、独自の世界観が展開されます。

c0309082_131891.jpg


 「じゃんぼらん」に限らず、『花図鑑』はSF漫画かと見まごうくらい(SF漫画としての一面ももちろんあり)サイエンティフィックな要素に溢れてますが、あくまでどの作品もベースとなっているのは少女漫画らしいラブストーリーです。ただ、多くの少女漫画が心の問題の追求に集中する中で、清原さんはそこに体の問題をプラスします。手つなぎやらハグやらキスやらそしてその先の行為やら体の問題とは切っても切り離せないのが恋というもの。体の側からのアプローチだけでは心の問題を解き明かせないように、心の側からのアプローチだけでもきっと体の問題を解き明かせなくて、だからこそ体(=科学)と心(=非科学)の両方向からのアプローチが必要なんでしょう。キラキラして可愛らしい少女漫画に読み耽っているとついつい登場人物たちの肉体の存在を忘れてしまいがちですが、体を持たない人間は存在しないわけで、清原漫画というのは体と心を同等に、同じレベルで扱っているところが、やはり稀有だなと思うのです。

 『花図鑑』以外にも女子の性を取り扱った漫画を清原さんは複数書いてますが、その究極系とも言える『花図鑑』。少女漫画界のみならず、日本漫画界全体を見渡しても他に似るものなき、ジャンル分けできない傑作です。女性はもちろんのこと、ぜひ男性にも読んでほしい漫画です。


:記事内の絵は清原なつの『花図鑑2』(早川書房、2004年3月)から引用させていただきました。

【ブログ内関連記事】
清原なつの『花岡ちゃんの夏休み』―みやもり坂があった頃 2013年5月19日




[PR]
by hitsujigusa | 2015-08-07 11:41 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

百日紅 (上) (ちくま文庫)


【あらすじ】
 文化11年、江戸。葛飾北斎、55歳。世に名を馳せる人気絵師でありながら下町の長屋に住み、質素な暮らしを送っている。北斎と同居するのが娘のお栄、23歳。北斎の片腕として、また代筆として父にも劣らぬ才能を発揮する。そんな変わり者親子の周りには、女好きで春画を得意とする居候の池田善次郎、北斎の愛人で女弟子の井上政、対立する一門でありながら北斎を慕う売れっ子若手絵師の歌川国直、北斎に振り回される本問屋の主人ら、個性的な面々が集まる。北斎とお栄、そして二人を巡る人々の毎日はふしぎな出来事やちょっとした事件に満ちていて――。


 江戸という時代を圧倒的な画力と観察力で徹底的にリアルに描いた稀代の漫画家、杉浦日向子さん。1980年に漫画家としてデビュー、1993年に惜しまれつつ漫画家を引退、その後は江戸風俗研究家としてテレビでも活躍しましたが、2005年に下咽頭癌のため46歳の若さで亡くなりました。そんな杉浦さんの没後10年ということもあってか、今年2015年は杉浦さんの残した名作が次々と映像化されます。
 当ブログでも取り上げた『合葬』は秋に実写映画として公開予定、そして『百日紅』はアニメ映画として5月9日に公開されます。ということで、今回は『百日紅』について少し書きたいと思います。

 『百日紅』は1話完結型の長編作品です。「番町の生首」「ほうき」「恋」「木瓜」「龍」「豊国と北斎」「鉄蔵」「女弟子」「鬼」「人斬り」「四万六千日」「矢返し」「再会」「波の女」「春浅し」「火焔」「女罰」「酔」「色情」「離魂病」「愛玩」「綿虫」「美女」「因果娘」「心中屋」「仙女」「稲妻」「野分」「夜長」「山童」の全30話で、映画ではお栄が主人公ですが、漫画では各話ごとにフィーチャーされる人物が変わり(時には北斎ともお栄とも直接関係ない人物がメインになることも)、そうしたエピソードの連なりで一つの作品となっています。

 物語の鍵となるのはやはり北斎ですが、北斎の人生とか仕事をテーマにしているわけではなく(それもあるけど)、あくまで江戸の市井の人々の姿を特徴的なエピソードとともに描いた群像劇です。
 読んでいちばん印象に残ったのは、流れる空気がゆったりしていること。一部の例外を除いて誰も時間に追われていない。北斎やお栄には絵の注文の締め切りがあったりするけれど、にもかかわらずなんだかのんびりしている。仕事をサボってるとか雑にやってるとかではなくて(サボるときもあるけど)、やるときはやるんだけれどもやらないときはやらない、みたいな。ちゃんと自分で自分の時間をコントロールしていて、だから仕事に食われたり潰されたりすることもない。
 もうひとつ、いいなと思うのは風通しの良さ。人も町も風通しが良い。ベストな表現が思いつかないが、開放感、爽快感、大らかさとも言い換えられる。とにかく窮屈さがない。みんなのびのびしている。人と人とのあいだに適度な距離感があって、それはたとえ親子であっても師弟であっても他者の領域に土足でずかずか踏み込まない、ちょうどいい距離の取り方を心得ている。現代では家族間や会社内などで変なかたちの過干渉が流行ってますが(マザコン、モラハラ、パワハラ、セクハラ……)、『百日紅』の人々はそこんところの“好い加減”をしっかり分かっているんですね。お互いの個性を尊重して、なんてつもりは北斎やお栄たちにはさらさらないでしょう。でも、変わり者でも悪者でも温かく受け入れてくれる、かどうかは分からないけど、別にいてもいいよ、と存在を認めてくれるような器の大きさを感じるのです。

 そんな人々によって作られているから、江戸という町自体もどっしり坐って両腕広げている感じがします。ゆえに怪奇の類も生き生きと幅を利かせます。
 『百日紅』にはいくつか狐狸妖怪や非現実的な現象が登場するエピソードがありますが、その一つが第2話の「ほうき」です。

c0309082_211595.jpg


 「ほうき」は亡くなった知人の死に顔の写生を引き受けた北斎が絵を描いていると、死人に魔が差して突然動きだす“走屍(そうし)”に出くわすという話。もちろんこんなことは頻繁に起こることではないので北斎も驚くが、吃驚仰天してあたふたしたりはせず、とりあえず絵を描き続ける。こんなふうに普通ありえないことが起こっても否定したり騒いだりするのではなく、走屍だからと肯定してしまうのが良いですね。これ以外にも北斎たちは摩訶不思議な出来事にたびたび出会いますが、どんな時もそういうもんだといわんばかりに泰然と受け容れます。そういった人知を超えたものを排除しない江戸の人々のスタンスがあるからこそ、不思議なモノやコトも人間の前に現れるのでしょうし、うまく共生できるんだろうなという気がします。個人的にはこういう一見無駄とも思える雑多なもので溢れた世界の方が、科学の力で統一された隙の無い世界よりも、好きだし楽しそうだなーと思いますね。

 もちろん江戸時代も楽しいことばっかりじゃありません。なんといっても死の問題があります。戦だらけの時代より改善されたとはいえ、殺人、武士の人斬り、病、身投げ、子どもの死、江戸の名物とも言われる火事など、まだまだ死は人々の身近にあり、『百日紅』の中でもしばしば死に関連する風景が描かれます。でも、その死さえも全体的にどこかさっぱりとしていて、湿っぽくはない。その描き方が、死が決して特別なものではなく生のすぐ隣りに在るものなのだと感じさせます。一方で、というか、だからこそ、生きている人たちのほとばしるような生の濃さが際立って印象に残ります。生と死、光と闇が区別なく曖昧に混じり合っているところが、なんとも言えない“お江戸”の魅力なのかもしれません。

 けれどその生きている人たちもただ生命を漲らせて明るさに満ちているかというとそんなことはなくて、孤独の影が常に付き添っています。メインキャラクターのみならず、1回こっきり出演の人たち、特に『男はつらいよ』のマドンナ的に登場する女性たちも、人と親しく付き合いはするけれどもベタベタはしてなくて、その独りで地に足つけてすっくと立ってる感じが、何ともかっこよくて美しい。でも別の言い方をすればそれは孤独ということでもあります。自分の人生は自分でどうにかしなければいけないという当たり前かつ意外に難しいこと。もちろん困ったときに人を頼ったり助けてもらったりすることはできるが、根本的な心の問題は自分自身で引き受けるより仕方ない。そういうふうに自分の孤独を自分のものとして自分の身で処理している姿が、使い古された言葉かもしれないですが、やっぱり粋だなと思うのです。

 『百日紅』で描かれる江戸の人々は、とても自由に見えます。実際は絶対的権力者もいるし、法律もあるし、身分もあるし、決して何もかもが自由というわけじゃありません。にもかかわらず、言論の自由も思想信条の自由も世界中好きなところへ行ける自由もある現代の日本人より、彼らの方が自由というものを存分に満喫しているように見えます。それは彼ら一人一人が、自由に伴う責任をちゃんと背負える本当の意味での大人だからなのでしょう。だからこそ、彼らはけっこうマイペースに生きてますが、ゆるさやテキトーさとは違って、見ていて胸がすくような気持ちの良さを感じずにはいられません。

 まだお読みでない方は、映画の方もいいですが、ぜひ『百日紅』を手に取ってみて下さい。


:記事内の絵は、杉浦日向子著『百日紅(上)』(筑摩書房、1996年12月)から引用させていただきました。

【ブログ内関連記事】
杉浦日向子『合葬』―“身近な昔話”としての死と戦争 2013年6月10日


百日紅 (上) (ちくま文庫)
杉浦 日向子
筑摩書房
売り上げランキング: 5,158

百日紅 (下) (ちくま文庫)
杉浦 日向子
筑摩書房
売り上げランキング: 4,598

[PR]
by hitsujigusa | 2015-04-13 03:01 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

あさきゆめみし 1 完全版 (KCデラックス)


 フィギュアスケートシーズン真っ只中ですが、久しぶりのフィギュア以外の記事となります。今回取り上げるのは漫画家・大和和紀さんの代表作である『あさきゆめみし』。大和さんの誕生日が3月13日ということで、それに合わせてこの名作をフィーチャーしたいと思います。

 『あさきゆめみし』は紫式部が書いた古典の名作「源氏物語」を漫画化したもの。平安の貴族世界を舞台に繰り広げられる主人公・光源氏のめくるめく恋愛遍歴を華麗かつ圧倒的な画力で見事に描き切っています。「源氏物語」について光源氏という男が主人公の恋愛小説だと知っている人は多くいると思いますが、改めて手に取って読もうという人はそうそういないでしょう。なんといっても超大作の古典だし、現代語訳もいろいろあるけれどどれがいちばん読みやすいのか分からないし、長さからいってもハードルが高いことに変わりはない。そんな“源氏物語ビギナー”にとって、『あさきゆめみし』はかっこうの取っ掛かり。漫画ということで原作と比べても取っつきやすく、「源氏物語」へのハードルをぐっと引き下げてくれる。かくいう私も「源氏物語」に興味はありつつもなかなか手が出せず、『あさきゆめみし』から入ってのちに現代語訳へと広がっていきました。
 ただし、『あさきゆめみし』は「源氏物語」の単なるコミカライズかというとそうではないし、原作の代役とか入門書とかいう見方だけで読んでしまってはもったいない、漫画ならではの表現方法が存分に生かされたオリジナリティー溢れる「源氏物語」となっています。

 ここで話はちょっと逸れますが、「源氏物語」を分析した評論に、2007年に亡くなった日本を代表する心理学者・河合隼雄さんが著した『源氏物語と日本人 紫マンダラ』という本があります(単行本で出版された当初の題名は『紫マンダラ 源氏物語の構図』)。この中で河合さんは、「源氏物語」において主人公であるはずの光源氏の存在感が希薄であると前置きした上で、「源氏物語」は光源氏を描いているのではなく、紫式部が自らの分身としてさまざまな女性を登場させることで、女性の内的世界の多様性を描いたのだ、というおもしろい指摘をしています。

 『源氏物語』を読んでいるうちに筆者が感じたのは、源氏の周りに現われてくる女性たちが、すべて作者、紫式部の分身である、ということであった。彼女は自分の人生経験をふり返り、自己の内面を見つめているうちに、自分の内界に住む実に多様で、変化に富む女性の群像を見出した。(中略)この多様で豊かな「世界」を描くにあたって、彼女は一人の男性を必要とした。その男性との関係においてのみ、内界の女性たちを生きた姿で描くことができた。内界の女性は無数に近かった。しかし、それは紫式部という一人の女性のものであるという意味で、彼女たちは何らかの意味でひとつにまとまる必要があった。そのため、彼女たちすべての相手を務めるのは、一人の男性でなくてはならなかった。それが光源氏である。(河合隼雄『源氏物語と日本人 紫マンダラ』講談社、2003年10月)

 確かに源氏の行動を見ると当時の貴族の男性は一夫多妻が常とはいえ、尋常でないくらい次から次へといろんな身分の女性に手を出す一貫性のない姿は一人の男性のそれというよりも、各々の女性に対するごとに人間が変わっているとさえ感じられるほど。そんな源氏と比べると登場する女性たちは皆血が通った人間としてのリアリティを漂わせています。
 そういった源氏を巡る女性たちを河合さんは母、妻、娼、娘の4つに分類し、それらを以下のような世界観を統合的に形にした“女性マンダラ”として図形化。「源氏物語」における女性の在り方の多様さを示しました。

c0309082_035265.jpg


 もちろん女性を4つのタイプに分類しているからといって女性を類型化・ステレオタイプ化しているわけではなく、男性との関係性に依って生きていかざるを得ない「源氏物語」の女性たち=平安の女性の実情を的確に反映していると思うのですが、振り返って考えてみると本質的なものは紫式部の時代もこの21世紀もそんなに変わっていないんじゃないかという気がします。昔と比べれば日本の女性もだいぶ社会進出は進んで、男性と同じように働く女性も、結婚しない女性も増えて生き方は多様になっていますが、男性との関係性で女性を位置づけるという点では未だに根本的な変化はないように思います。母であれ妻であれ娘であれ娼(恋人or愛人)であれ何かしらの役割を求められるという意味で、現代の女性が母でも妻でも娘でも娼でもない“個”の自分として生きていくには、まだまだ生き辛さがあるのかなという感じがしますね。

 そうして紫式部は自らの分身=男性との関係性の中で生きる女性たちの姿を鮮やかに描き切ったわけですが、さらに発展して“個”として生きようとする女性も描いていて、タイトルこそ「源氏物語」ですが、中身は徹底的に女性に迫った“女性のドラマ”と言えそうです。
 ですが、ビギナーが「源氏物語」を読む場合、女性たちそれぞれの心情だったり人間性だったり細かい部分を読み取るのはなかなか難しく、それ以前に古典文学という高いハードルが目の前にあり、“ドラマ”という感覚で楽しめるようになるまでには数回読み通すことが必要でしょう。
 そんなハードルを軽々と乗り越え、女性ドラマとしてのおもしろさを存分に堪能させてくれるのが『あさきゆめみし』です。
 特筆すべきはなんといってもそれぞれ異なる魅力を持った女性キャラクター。原作では情報が少なく、各女性キャラの個性を思い浮かべながら読み進めるのは困難ですが、漫画では全員黒髪&床まで伸びる長髪&十二単という制約の中で微妙な髪型の違いや目の大きさの違いなど姿かたちを絶妙に描き分け、個性を強調しています。
 感情表現、心理描写ももちろん原作より事細か。漫画ならではのセリフ、モノローグ、表情を巧みに駆使して描かれる女性たちは、源氏に翻弄されて泣いたり、怒ったり、嫉妬したり、喜んだり。その姿は現代の女性と何ら変わらない自分の周りにも普通に居そうなリアルさに満ちていて、これが1000年以上前に書かれた物語であることをすっかり忘れてしまうのです。

 そんなふうに『あさきゆめみし』は原作に書かれていることから想像したり、書かれていないことを補ったりして世界観が作り上げられていて、紫式部の「源氏物語」とはまた別の一つの作品と言えるかもしれません。でも、「源氏物語」の本質が壊されているかというとそんなことは決してなく、それどころか女性ドラマとして見ると、『あさきゆめみし』は紫式部が提示した女性の在り方の多様性をより鮮明にし、原作以上に女性という存在の本質を際立たせていると、個人的には思います。
 それが最もよく表れているキャラクターが源氏の最愛の人・紫の上です。上の女性マンダラを見て気付かれた方もいるかもしれませんが、女性マンダラの中に紫の上の名前はありません。なぜなら紫の上は、幼くして源氏に見初められて引き取られる=娘、源氏と結ばれて正妻格となる=妻、明石の御方の娘を引き取って育てる=母、源氏が新たな正妻を迎える=娼と、唯一4つの役割を全て経験する女性だからです。
 理想の女性になるよう源氏に育てられ、成長してからは理想の妻、養女の明石の姫君にとっては理想の母と、女性として最高の人生を歩む紫の上は、途中までは完全に源氏=男性との関係性の中でのみ生きる女性と言えます。しかし、源氏が内親王である女三の宮を正妻に迎えたことによって紫の上の自信は揺らぎ、それまでの紫の上の成長―少女からレディへ、レディからマダムへ―を紙上でずっと見守り続けてきた気分のこちらにも、紫の上の受けた衝撃の大きさがヒシヒシと伝わってきます。そんな事件をきっかけに紫の上は源氏に身をゆだねてきたことに疑問を抱きはじめるわけですが、彼女のそうした変化はのちに登場する個として生きようとする女性の嚆矢、前兆となっていきます。
 そして、紫の上以外の女性たちに関しても、原作よりもずっと“個”として生きているような印象があります。もちろん源氏との関係性においてのみ語られるという点には変わりないので、本来の“個”の意味とは違うのですが。でも、どの女性もしっかりキャラ立ちしていて、人間臭くて、源氏の母、妻、娼、娘であるという位置付けを超越して、源氏のいないところで生きる姿もちゃんと想像できるような、そんな女性たちばかりなのです。
 よく、キャラクターが勝手に動きだすと言いますが、『あさきゆめみし』は原文、現代語訳以上に、女性たちが自由に生き生きと、自分自身の意思で動いているように感じられる、女性ドラマとしてのおもしろさを最もよく伝える「源氏物語」だと思います。

 ここまで女性キャラのことしか書かなかったので、主人公である光源氏についても最後にちょっと付け加えておきますと、『あさきゆめみし』は女性たちが生き生きする漫画であると同時に、光源氏が生き生きする漫画でもあります。「源氏物語」で描かれた人間であって人間でないような源氏の薄っぺらさに『あさきゆめみし』では血や肉が加わり、“個”の人間・光源氏として立ち上がっているような感じがします。だからこそ、『あさきゆめみし』の源氏はマザコンで女たらしですが、女性たちがほっとけなくなるのも分かるような、ちゃんと魅力ある主人公と感じられます。源氏の人間臭さを楽しむという観点でも、『あさきゆめみし』は優れたドラマになっていますね。


注:記事内の女性マンダラの写真は、河合隼雄著『源氏物語と日本人 紫マンダラ』(講談社、2003年10月)から引用させていただきました。


あさきゆめみし 1 完全版 (KCデラックス)
大和 和紀
講談社
売り上げランキング: 82,507

あさきゆめみし(1) (講談社漫画文庫)
大和 和紀
講談社
売り上げランキング: 71,677

源氏物語と日本人 (講談社+α文庫)
河合 隼雄
講談社
売り上げランキング: 357,563

[PR]
by hitsujigusa | 2015-03-12 16:59 | 漫画 | Trackback | Comments(2)

星の王子さま バンド・デシネ版 (Le Salon des livres)


【あらすじ】
 パイロットの“ぼく”は飛行機のトラブルに見舞われて致し方なくサハラ砂漠に不時着。そんな“ぼく”の前に不思議な少年が現れ、自分をとある小惑星からやってきた王子であると話す。“王子さま”は“ぼく”に王子さまの星の話、地球に来るまでに訪れた星の話をして――。


 6月29日はフランスの作家アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの誕生日。ということでサン=テグジュペリの代表作『星の王子さま』を今回はピックアップします。といっても取り上げるのは小説ではなく、漫画。『星の王子さま』をフランスの漫画家がコミック化した作品を紹介したいと思います。

 本書はサン=テグジュペリの『星の王子さま』を原作に、フランスの漫画家ジョアン・スファールさんがアレンジを加えてかつ忠実にコミック化し、それを小説家の池澤夏樹さんが翻訳したものです。小説を漫画にしたことによって、小説版とはまた一味違った『星の王子さま』の魅力を感じられるようになっています。
 まずはなんといっても絵。フランス、ベルギーの漫画=バンド・デシネらしい絵は全カラーで鮮やか、色のコントラストが美しく引き込まれます。バンド・デシネの特徴といえば日本の漫画と違ってコマの大きさが変わらず一定なこと。それゆえに絵自体で魅せるという面が強いですし、コマに動きがない分、絵の動きが強調されて映画的でもあります。

c0309082_17303739.jpg


 そして、ジョアン・スファールさんの絵特有のスパイスの効いた感じ。独特なデフォルメがなされていて、上の書影でも分かるように“王子さま”も横長の大きな顔、ギョロッとした大きな目という姿で描かれています。サン=テグジュペリが描いた可愛らしい“王子さま”とは全く異なりますが、だからといって作品の世界が壊されるとか台無しになるとかいったことはなくて、自由奔放な子どもである“王子さま”の子どもらしい面が前面に押し出されていて、突然ヒツジの絵をねだったり唐突に泣き出したりする無邪気さ、また、ある種の(子ども特有の)乱暴さがこのデザインによって表現されているように感じます。
 サン=テグジュペリの原作を読んでいると“王子さま”が大人のように思えてくることがあるのですが、このバンド・デシネ版は“王子さま”がまさに生きている子どもであることを感じさせてくれます。ほかの登場人物たち―“ぼく”やキツネ、バラ、王様、ビジネスマン、地理学者など―も、原作以上に生き生きと、そして人間臭く描かれていて、やはりそれも絶妙にデフォルメされた絵の効果が大きいように思いますね。

 絵の効果とともに重要なのが文章の効果。本書のフランス版の文章はほぼサン=テグジュペリの原作どおりらしいのですが、日本語版では訳者の池澤夏樹さんがうまくこの漫画の雰囲気にふさわしい言葉づかいに変えています。池澤さんは以前にも『星の王子さま』を翻訳していますが(集英社から出版)、本書では小説の時の文章よりもずっとくだけた感じになっています。

c0309082_1274731.jpg


 小説は子どもである“王子さま”が文学的な感じの喋り方をしていても気になりませんが、バンド・デシネは何より絵があるので、この姿、風貌の“王子さま”が喋っても違和感のない言葉づかいでなければいけません。そういった点でも本書の“王子さま”はずっと子どもらしく、人間味に溢れ、原作以上に親近感の沸くキャラクターとなっています。

 こうした絵の効果、言葉の効果をふまえて、サン=テグジュペリの原作とジョアン・スファールさんのバンド・デシネ版のいちばんの違いはなにかと考えると、親しみやすさだと私は思います。
 『星の王子さま』というと世界的に知られた名作で、童話・ファンタジーでありながら深い意味が込められた哲学的な文学作品としても読まれています。だからこそ探るような読み方をしてしまうというか、ひとつひとつのエピソード、キャラクターに対して「どんな意味、風刺、メッセージが隠されているんだろう」という読み方をしてしまう人も多いのではないでしょうか。全く『星の王子さま』を知らず、前知識も先入観もない幼い子どもがまっさらな状態で読むのとは違い、大人が『星の王子さま』を読む場合、純粋な童話・ファンタジーとしてシンプルにとらえることは難しいようにも感じます。
 ですが、バンド・デシネの『星の王子さま』は、そんな童話・ファンタジーとしての『星の王子さま』の世界を存分に見せてくれます。絵本のように色鮮やかなオールカラーページ、大胆にデフォルメされた漫画チックな人物や動物。リアルさからは遠く離れた絵によって、この作品のファンタジー面が強調されます。一方、“王子さま”が訪れた星々で出会う風変わりな大人たちは思いっきりカリカチュアライズされることで原作以上に皮肉が感じられるようになっていて、ファンタジー色の濃い中でも、サン=テグジュペリが物語に込めたエスプリがひしひしと伝わってきます。
 
 上の文章で私は原作とバンド・デシネ版のいちばんの違いは親しみやすさだと書きましたが、少し語弊があるかもしれません。親しみやすいという点ではどちらも同じくらい読みやすいし親しみやすい。ただ、『星の王子さま』という作品はとてつもなく深く、多様な見方・読み方ができる重層的な物語なので、ともすればどう読めばいいのか頭がこんがらがってしまうかも、難しく考えすぎてしまうかもしれません。バンド・デシネ版は“絵”という視覚に訴える手段を取ることで、『星の王子さま』のシンプルな見方、楽しみ方をわかりやすく提示してくれます。また、文章ではわからないキャラクターたちの表情や細かなシチュエーション、景色も描けるというバンド・デシネならではの表現によって、『星の王子さま』という作品にさらなる深みをプラスしています。
 
 バンド・デシネ版の『星の王子さま』は漫画化することで原作の精神を変えるのではなく、原作の神髄を原作以上に際立たせています。名作をメディアミックスするというのは漫画化に限らず難しいと思いますが、この作品は見事に成功した貴重な作品と言えます。
 以前『星の王子さま』を読んだことがある方にとってはさらなる魅力を教えてくれる本として、これまで一度も読んだことがない方にとっては『星の王子さま』への入り口となる本として、ぜひ本書を手に取ってみてほしいと思います。おすすめです。


:記事内の写真はジョアン・スファール作、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ原作『星の王子さま』(サンクチュアリ出版、2011年5月)の公式ホームページから引用させていただきました。


星の王子さま バンド・デシネ版 (Le Salon des livres)
ジョアン・スファール
サンクチュアリ出版
売り上げランキング: 46,612

[PR]
by hitsujigusa | 2014-06-28 03:13 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

風の谷のナウシカ 1 (アニメージュコミックスワイド判)



【あらすじ】
“火の7日間”と呼ばれる戦争から1000年経った世界。有毒物質がまき散らされ文明が失われた世界において、地表は不毛の地と化し、瘴気が充満する森“腐海”が拡大を続ける中、人類は腐海の恐怖に怯えながらひっそりと暮らしていた。
辺境の小国“風の谷”の族長の娘ナウシカは、腐海に生息する“蟲”と心を通わせる少女。自治権を保証する代わりに戦の際には戦列に参加せねばならないという大国トルメキアとの盟約のため、身体が不自由な父に代わってナウシカは出陣することが決まっていた。
そんなある日、隣国ペジテの船が風の谷の近くに墜落。ナウシカは救助に向かうが……。


宮崎駿監督が引退した。
それを記念してというわけじゃないが、ちょうど良い機会なので、『風の谷のナウシカ』を取り上げようと思う。

『風の谷のナウシカ』は1982年に『アニメージュ』で連載が始まり、中断を挟みながら1994年に完結した。
連載途中の1984年、作者の宮崎駿氏本人の監督によって映画化され、ヒットし、高評価を得た。
映画は映画でもちろんとても素晴らしいものなのだが、連載中の映画化なので漫画の最初の方のエピソードをシンプルにまとめた内容となっている。そのため映画と漫画は別物と言っていいくらい異なる展開を見せる。
映画のラスト、ナウシカは風の谷に向かって暴走する“王蟲”の大集団に身を投じて暴走を止める。つまり自らを犠牲にして故郷を救うのである。しかし王蟲の力によって、死んだはずのナウシカは奇跡的に蘇る。
この結末に対してプロデューサーを務めた高畑勲氏は、現代を照射する作品になっていないというふうに評している。つまり、映画が現代に対する批評になっていないということだろう。元々はナウシカが王蟲の前に降り立つところで幕を閉じる予定だったのを、死んで蘇るというわかりやすいラストに変更したらしい。哲学的側面に娯楽的側面が勝ったわけである。だが、その分ある種のリアリズムは失われた。

一方、漫画は娯楽性からはかけ離れている。内容はとにかく難しい。全7巻を一度読み通しただけでは全く理解できないし、二、三回でもだめ。十回読み返してようやく一端が理解できるような難しさである。
でも、そういった難解さを考慮しても、この漫画はおもしろい。
何がおもしろいか、何が魅力か、私的意見ながら述べさせてもらう。

1つ目。世界観の緻密さ、リアリティ、生々しさ。
この魅力を言葉で伝えるのは非常に難しい。“腐海”とか“蟲”とか描かれる世界とか、とにかく登場する全てのものにまるで実在しているかのような生々しさがあるとしか言いようがない。こんな世界を見たことがある人などいるはずがないし、頭ではフィクションと了解した上で読んでいるのだが、それでも何か身体に沁みるようなリアリティがあり、単なる作り話と思えない。
描かれている世界は、私たちが生きるこの現代世界から見ればあまりに突飛な世界である。しかしこれは異世界ファンタジーではなく、あくまで産業文明の崩壊から1000年経った世界、つまり近未来ファンタジーとも取れるのだ。この前提があるために、どうしても現在の地球の延長線上にこの世界を見てしまうし、毒ガスをまき散らす“腐海”もリアリティを持って迫ってくる。

2つ目。移動する物語としてのリアリティ。
映画でもナウシカは風の谷から腐海、ペジテへと移動するが、漫画ではそれ以上に遥々移動する。そこには単なる目的地から目的地へと飛ぶような旅とは違う、移動する間の過程が事細かに描かれている。移動には疲労と苦痛が伴う。コルベットや大型船のなかにも生活はある。移動する人間たちの体感が、観念ではなく、身体的な感覚を伴って、読んでいるこちらにも伝わってくる。
そして、地図が付いていることも大きい。こちらが『ナウシカ』の世界地図。

c0309082_035613.jpg

ハイ・ファンタジーの名作には地図が存在するものが多い。『指輪物語』『ナルニア国ものがたり』『ゲド戦記』の世界三大ファンタジーはもちろん、『ムーミン』『十二国記』『守り人』『西の善き魔女』『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』などなど。
どんな突拍子もない設定の世界でも、大地があり、海があり、森、山脈、砂漠、街々があるという地理が示されることによって、私たちが暮らす世界と基盤・条件を共有しているのだという親近感が生まれ、リアリティを感じる。それと同時に、そこに生きるキャラクターたちに対しても生きた人間のような実在感を覚えるのだ。

3つ目。サイエンス・フィクションとしての魅力。
宮崎監督が軍事マニアであることは知られていると思うが、その趣味はこの作品でもいかんなく発揮されている。戦闘機、飛行機、銃などの造形は細密で、あっという間に流れ去っていく映像以上に圧倒されるものがある。
でも、それ以上に私が凄いと思ったのは植物の描き方。作品の重要なモチーフとなるのが“腐海”、その腐海に植生する植物は主に菌類の植物である。胞子が地上に舞い降り、地中に菌糸を広げ、地表に発芽し、巨大に育ち、再び胞子を放出する。そうした植物の生命の仕組みが子どもだましではなく、一つの生命の営みとしてきちんと描かれている。人類の世界とは全く異なる生態系、それが人類にとって救いともなるし脅威ともなる。この作品はただ単に人間を描いたものではなく、人類も含めた多種多様な生命体の生のかたち、在り方を問うたものになっている。

4つ目は絵。
宮崎監督は元々漫画家を目指していたというから、当然画力は尋常でないものがあるのだけれど、いわゆる普通の漫画家の絵とは違うから、普段見ている漫画と同じ感覚で読み始めると最初は少し見にくく感じる。
白い画面はほとんどなく、背景の隅々まで細かく描き込まれている。タッチを重ねた陰影部分は深く、白い箇所とのコントラストが、美しい明暗となっている。
宮崎監督は引退会見でも児童文学に影響を受けたと語っていたが、絵も欧米の児童文学作品の挿し絵のような雰囲気を漂わせている。ご自身の著書の中でも好きな本として挙げていたが、エドワード・アーディゾーニの絵に似ている。
一コマ一コマがひとつの挿し絵のように贅沢で、見応えがあって、美しい漫画だ。

以上が、私が感じた『ナウシカ』の魅力だ。本当はもっといっぱいあるが、言葉にできないしまとまらないのでまとめられることだけ書いた。
哲学的で難解なストーリーだけに、理解には時間が掛かる。『ジブリの教科書』という実に参考になる本もあるが、やはり最初は先入観なしにまっさらな状態で読んでほしい。

最後に。
アニメーションから離れられるというのはあまりにも惜しいが、今までコンスタントに新作を発表し続けてくれただけでもありがたいことだし、同じ時代に生きていて良かったなと思う。
ゆっくり休んでいただきたい気持ちもあるし、いつでもカムバックしてもらいたい気持ちもある。でも、一度決めたことはそう簡単には覆さないだろう。
新作を拝見することは(たぶん)もうできないが、幸いなことに、これまで監督が世に送り出してくれた作品の数々があり、それらを繰り返し見ることができる環境に私はいる。こんなに幸福なことはない。


:記事内の地図の写真は、宮崎駿著『風の谷のナウシカ3』(徳間書店、2008年1月)から引用させていただきました。

【ブログ内関連記事】
小川洋子『アンネ・フランクの記憶』―アウシュヴィッツと零戦 2013年7月25日




ジブリの教科書1 風の谷のナウシカ (文春ジブリ文庫)

文藝春秋 (2013-04-10)
売り上げランキング: 2,879

[PR]
by hitsujigusa | 2013-09-10 01:57 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

c0309082_0181848.jpg


【あらすじ】
時は慶応4年、4月11日。旗本の養子である柾之助は、酒席でのいざこざで死んだ養父の仇を討てと養母に言われ家を出るが……。一方、佐幕派で江戸市中の治安取締りを行う彰義隊に入隊した秋津極は、許嫁との縁組を解消するため福原家を訪れていた……。


現在、大河ドラマでは『八重の桜』を放送している。『八重の桜』は戊辰戦争を描いているが、中でも会津戦争を主にしている。
この『合葬』もまた戊辰戦争を取り上げているが、こちらが描くのは上野戦争である。

上野戦争は慶応4年5月15日、旧幕府軍である彰義隊と新政府軍のあいだで行われた戦争で、もちろんと言ってはなんだが、新政府軍が勝利を収めた。
『合葬』は彰義隊側の視点から上野戦争前後の経過を描いているが、決して、どちらが正しいとか、あの戦争は何だったのか、彰義隊とは何だったのか、みたいなことを描いてはいない。この作品について、作者の杉浦日向子さんはこう述べている。

四角な歴史ではなく身近な昔話が描ければと思いました。彰義隊にはドラマチックなエピソードが数多くあります。勝海舟、山岡鉄舟、大村益次郎、伊庭八郎、相馬の金さん、松廼家露八、新門辰五郎等、関わるヒーローもたくさんいます。が、ここでは自分の先祖だったらという基準を据えました。隊や戦争が主ではなく、当事者の慶応四年四月~五月の出来事というふうに考えました。〉(杉浦日向子『合葬』筑摩書房、5頁)

そう、あくまである人間が経験した出来事として戦争を描いている。歴史を整理し、上から眺めているような教科書的なものではなく、そこに生きる人間の体感としての戦争。
だから、彰義隊を美化したものにはなっていない。よくドラマや映画では新選組や白虎隊など新政府に抗う人々が美化され、そうした人々の死には美しさがあり、意味があるように描かれる。
しかし、この作品では、彰義隊士たちの死は淡々と描写される。美しくもないし、特別意味付けもなされない。戦争という殺戮を目的とするイベントの中で、当然のごとく血が流れ、人が死ぬだけである。
だからこそ、淡々としてはいるが、それらの死には圧倒的な現実味がある。
ゆえに、むやみやたらに残酷に描いているわけではないのに、戦争というものの虚しさ、惨さがありありと伝わってくる。

一方で、この作品は“戦争”という程遠いものを、身近なものとして感じさせてくれる。
主役級三人―柾之助、極、悌二郎―をはじめ、描かれている人々は、ケンカをしたり恋をしたり家族や友人を想ったりする、私たち現代人と何ら変わりない普通の人間、血の通った人間である。
しかし、そんな彼らが戦に身を投じ、巻き込まれ、殺し、殺される。
普通の人々が突然戦争の加害者となり、被害者となる。ついさっきまで元気だった人間が一発の銃弾によってあっさりと命を落とす。そういったリアリティによって、程遠いものであったはずの“戦争”が自分の隣にぎゅっと引き寄せられる。
柾之助は、極は、悌二郎は、私自身の姿であるのかもしれない。そういう感覚にさえ陥る。

最後にもうひとつ、杉浦さんの言葉を。

江戸時代というと何か、SFの世界のように異次元じみて感じられます。自分の父祖が丁髷を結ってウズマサの撮影所のような街並を歩いている姿など実感がわきません。が確かに江戸と現代はつながった時の流れの上にあり、丁髷の人々が生活した土地に、今わたしたちもくらしています。遠い所の遠い昔の話のようでも、この場所でほんの百二十年前の父祖たちの話なのです。〉(同書、190頁)

まさに「つながった時の流れの上」にあるものとして、江戸の終わりを体感できる『合葬』。ぜひご一読を。


:記事冒頭の書影写真は筑摩書房のウェブサイトから引用させていただきました。以下に、引用リンクを記します。

【引用リンク】
筑摩書房 合葬/杉浦 日向子 著

【ブログ内関連記事】
杉浦日向子『百日紅』―自由な人々 2015年4月13日


合葬 (ちくま文庫)
合葬 (ちくま文庫)
posted with amazlet at 13.06.09
杉浦 日向子
筑摩書房
売り上げランキング: 98,537

[PR]
by hitsujigusa | 2013-06-10 04:24 | 漫画 | Trackback | Comments(0)

花岡ちゃんの夏休み (ハヤカワコミック文庫 (JA840))


※5月21日、写真の変更、文章やリンクなどの追記をしました。

前の記事で清原なつのさんの「花岡ちゃんシリーズ」を紹介しました。
「花岡ちゃんシリーズ」は金沢を舞台にした漫画なので、実在するスポットがいくつか出てきます。
そのひとつが中央公園。
繰り返しになりますが、清原さんが金大生だった頃、キャンパスは今の金沢城公園にありました。中央公園はそのすぐ横にあるため、実際に学生たちにとってなじみのある公園だったんじゃないかと想像します。
シリーズの中でも、花岡ちゃんをはじめとした学生たちの憩いの場として描かれています。
中央公園が登場する場面がこちら。

c0309082_15112561.jpg

(清原なつの『花岡ちゃんの夏休み』早川書房、2006年3月、13頁)


木々があふれ、ふかふかの芝生が生い茂っているのがわかります。
作品が描かれてから数十年経って、芝生が退化するなど多少の変化はありつつも、今も中央公園は「花岡ちゃん」を想起させてくれる場所であります。

前置きが長くなりましたが、そんな中央公園に再整備の計画が上がっています。

◇◇◇◇◇

県の中央公園 減る緑 使い勝手優先  県が樹木45本伐採へ  環境団体から疑問の声

 石川県が北陸新幹線金沢開業を見据え、金沢市中心部の中央公園の改修を進めることになり、大型連休明けから公園の樹木伐採を始めることが県への取材で分かった。環境保全を訴える県民から懸念の声が上がる一方、県はイベント時の使い勝手などを理由に挙げ、一定の樹木を残すとして理解を求める。都市の魅力向上と自然環境の両立の難しさが浮き彫りとなっている。
 中央公園は約四十年、都市部の緑地空間として親しまれているが、近年は芝生の劣化で雨天時に地面がぬかるみ、イベント運営に支障が出る状態。改善を求める声に県は二〇一三年度、事業費約二億八千二百万円で改修に着手する。来年二月の食イベント開催までに公園中央部の地面を透水性舗装に変更。香林坊側入り口と、しいのき迎賓館側の緑地を結ぶ通路、金沢城公園玉泉院丸側へ横断する通路を直線化する。
 これに伴い、県は公園内の大小の樹木約六千本のうち、高木など約四十五本を連休明けから伐採する予定。夜間の香林坊側の見通しを良くすることで治安改善の狙いもあると説明する。
 これに対し野鳥観察や環境保全に取り組む市民団体「森の都愛鳥会」前会長の本間勝美さん(73)=金沢市=は「県は国際会議誘致など生物多様性の重要性を強調するのに、都市の緑地を減らすのは矛盾」と批判。世界には中心部に広い緑地がある都市が多いと指摘し「新幹線準備を盾に、観光資源になる豊かな自然を捨てることになる」と見直しを求める。
 一方、県側が中央付近の広場の一部に芝生を残し、所々にシンボルの高木を残すほか、樹木をそのまま残す区域もあると説明。担当者は「しいのき迎賓館側に緑地機能を持たせることで中央公園の緑は減るが、一定の樹木は残すので緑地が失われるわけではない」と話している。

北陸中日新聞 2013年4月26日 朝刊


こうした県の動きに対し、残念がる声、反対の声がすぐに上がりました。


中央公園伐採へ  癒やしの緑 残して  市民ら訴え 専門家「金沢のご神木」

 深く根を張り、若葉を茂らせた巨木が切り倒される。連休明けの改修着手が明らかになった金沢市広坂の中央公園。散策する市民は「宝物みたいな存在。お願いだから切らないで」と訴える。識者からは議論の不十分さを指摘する声も。このまま伐採されるのか、保存の可能性は―。身近な緑地空間に環境問題が浮上した。
 県が伐採するのは公園内の約六千本のうち、1%に満たない四十五本程度。とはいえ、クスノキやヒマラヤスギなどほとんどが大木。市民らが全体を眺めた時に、緑がぐっと減った印象になることを心配する。
 真っすぐに伸びた大木の高さは三階建ての建物ほど。若葉がもえる枝を広げ、遊歩道沿いのベンチを木陰で包む。根は大蛇が這うように地面を盛り上げ、コケが広がる。大人二人が両手で抱えようとしても届かないほどの幹に、伐採を告げる赤いテープが巻かれている。
 仕事帰りの四十代女性は「あふれる緑が癒やし。思い出が詰まった場所。本当は一本も失いたくない」。散歩コースにする六十代男性は「学生時代から見慣れた風景だから」と大木に安心感を抱く。
 まちづくりに詳しい金沢大の伊藤悟教授(地理学)が「ふらっと足を運び、弁当を広げることができる。観光客が集う兼六園や金沢城公園にはない魅力がある」。県が説明するイベント運営やアクセス強化に一定の理解を示した上で「それらが本当に今、あの場所に適切なのか。市民の声に耳を傾け、議論と検証を重ねて」と求める。
 富山市に生まれ、日本建築学会長を務めた尾島俊雄早稲田大名誉教授(都市環境)は、中央公園の樹木を「金沢のご神木」と表現する。四十本余の伐採を「地域の雑木と同じ扱いにしてはならない」と強調。県民の意見を聴く場を十分に設けなかった点を疑問視し「一本一本が県民の記憶と重なり、受け継がれてきた。行政が簡単に決断できる話ではない。十分な議論がなく、知らないうちに(木々が)切られる事態は避けるべきだ」と警鐘を鳴らす。

北陸中日新聞 2013年4月26日 朝刊

c0309082_118102.jpg


そして、市民団体も立ち上げられ、県に計画の見直しを申し入れましたが……。


中央公園整備 県、「伐採」変更せず  市民団体に回答 17日現場封鎖

 樹木の伐採中止などに反対の声が上がる金沢市広坂の中央公園の整備計画をめぐり、石川県は十三日、計画見直しを求める市民団体の申し入れについて、谷本正憲知事名で回答した。変更はせず、従来の主張を繰り返す内容。都市公園には多面的な機能があり、意見を聞いて十年にわたって検討したと強調した。また十七日から芝生広場が封鎖されることも明らかになり、本格的な工事に向けた準備を加速させた。
 計画では、イベント時の使い勝手向上や県周辺施設と一体化させた活用を目指し、来年一月まで工事を続ける。大小六千本のうち四十五本を切り、衰退した芝生に替わってアスファルト舗装をする。
 市民団体「中央公園の緑を守る会」は一日と九日に県庁を訪れ、(1)工事開始日(八日)の変更(2)伐採中止(3)舗装化の中止(4)県民からの意見聞き取り(5)整備内容の再検討-を求めた。県によると、回答は十三日午後五時ごろ、メールで代表の熊野盛夫さん(43)へ送った。
 回答では伐採について「改修に支障となる樹木に限り予定している」「旧制第四高等学校由来の樹木やシンボル的な大木を含め、多くはそのまま残す」と明記。芝生広場のクスノキやケヤキの大木、石川四高記念文化交流館周辺は守るという。
 舗装化に関しては「災害時における避難場所や天候に左右されにくいイベント会場としての機能向上を図り、バリアフリーにも配慮」すると説明した。
 経緯として、二〇〇三年度に地元関係者をはじめ都市計画や造園、生態学などの学識経験者、一般公募した県民で構成された委員会で検討、現在の方向性が示されたと紹介。意見聴取の場を設ける可能性を否定した。
 「新たな都心の賑(にぎ)わい創出に向け、これまでの中央公園と異なる魅力ある緑の空間に再生することが、多様なニーズにお応えできる整備内容と考えております」と結んだ。
 一方、県公園緑地課は十三日午後四時から、立ち入り禁止を知らせる看板の設置を始めた。期間は十七日~来年一月三十一日で、芝生広場を含めた大半がフェンスで囲まれる。十三日付でホームページを更新し、経緯や狙いなどを詳細にまとめた。

核心ごまかし

<中央公園の緑を守る会の熊野代表の話> (工事の変更要請で)県庁に出向いた際に受けた説明と何ら変わっていない。県民の意見聴取を求めたが、四十五本伐採するなど細かい内容は説明しておらず、核心をごまかしている。

北陸中日新聞 2013年5月14日 朝刊

c0309082_2313019.jpg


公園の再整備には、こんなところからも反対の声が。


中央公園整備 「園児遊び場失われる」  金沢の幼稚園 計画変更要望へ

 石川県が樹木の伐採や芝生広場の透水性舗装などを計画する金沢市広坂の中央公園整備事業で、公園を日常的に利用している市内の幼稚園から「子どもたちの貴重な遊び場が失われる」と計画変更を求める声が上がっている。木陰があり、土や芝生の上を走り回れる公園の大切さを訴え「保育環境に対する県の考え方を聞きたい」と要望する。
 公園まで歩いて十分程度の長町幼稚園では普段からよく中央公園に出掛けていた。土と芝生の広場では転ぶことを気にせずに思いっきり走り回り、地面の虫を追いかけた。木陰が豊富で夏でも過ごしやすく、金沢城公園に出掛けても弁当は中央公園でとるほど親しんでいたという。
 県の計画を知ったのは、本紙が樹木四十五本の伐採予定などを報じた四月末になってから。保護者からも「なぜ」という声が相次ぎ、園の玄関前に記事や写真を掲げた。市民団体「中央公園の緑を守る会」が実施する書名にもほとんどの保護者が協力したという。
 主任の松井恭美さんは「根っこのでこぼこや土の感触がみんな大好き。自然の教材にあふれた今の公園が一番すてきだし、大切であることを分かってほしい」と訴える。
 十五日には立ち入り禁止前の公園を最後に楽しもうと散歩に訪れ、樹木に耳を当てた。園児は「木は生きているね」と話していたという。
 清泉幼稚園の新谷裕美園長も「転んだ時のダメージや夏場の照り返しを考えると、舗装された公園は利用しにくい」と疑問を投げかける。街なかの幼稚園にとって木や土と触れられる環境は貴重だとし「県がどんなふうに保育環境を考えているのか聞いてみたい」と話している。

北陸中日新聞 2013年5月19日 朝刊

◇◇◇◇◇

私自身は県の計画の何もかもがだめだとは思いません。
県は、雨天時に土がぬかるんでどろどろになることや、段差があってバリアフリーの観点から使い勝手が悪いことなどを問題点として挙げていますが、たしかにそういう点ではうなずける部分もあります。

それでも再整備には疑問を感じてしまいます。
私がこれはどうなの?と感じたのは以下の2点。

①イベント運営における使い勝手を優先
②市民、県民の意見聴取の必要

①については、県の目があまりにもイベント運営とか見栄えの良さとかにばかり向いていて、「公園」という場所のもうひとつの働きを忘れているんじゃないかなということ。
公園でイベントを開催するのが悪いわけじゃありません、もちろん。今までもイベントは行われてきたし、私自身それで楽しんだ経験があるし。
でも、イベントが開催されるのは時々。
一方、市民の憩いの場所、子どもの遊び場として使われるのが日常。
イベント時の使い勝手を考えるのも大切だけど、日常的に利用する人々にとっての「使い勝手」を考えるのも大切なんじゃない?
と思うわけです。

上に幼稚園が計画変更を求めているという新聞記事を掲載しましたが、私も小学校時代に遠足で中央公園に行き、土の上に座ってお弁当を食べたり走り回ったりした記憶があります。
「花岡ちゃん」の中でも、花岡ちゃんや簑島さんたちが芝生の上に直接座ったり寝転がったりしている絵が多くあります。
舗装されればこういうことはしにくくなってしまいますね。

現在の中央公園の俯瞰写真
c0309082_0211426.jpg


改修後の中央公園の平面図
c0309082_0214064.jpg


改修後のイメージ図はこんな感じ
c0309082_0221235.jpg


たしかに整っていてきれいではあるけど。
普段から利用している人々が、「良い」「好き」と言っている部分がことごとくなくなっている感じ。
公園ってなにより日常使いする人々のためのものであるべきと思うから、市民の声をもっと聴いてほしい。

そこで出てくるのが②の問題。
市民団体が市民の意見聴取の場を設けてほしいと県に要望しましたが、残念ながら今のところ実現せず。数千人分の署名も提出しているようなのですが、それでも「計画変更なし」の一点張りの県の頑なさにはがっかり。

これまで県議会で発言したり、有識者や一般公募の人たちで構成された委員会で話し合ったりと、けっこう前から構想はあったようです。それを根拠に県は「十分検討した」という姿勢です。逆に言えば、
「にもかかわらず、新聞報道されるまで地元の人間のほとんどが、この計画について全く知らなかったというのはどういうことだろう?」
という疑問をおぼえます。
県のホームページにこの計画のプランが掲載されたのも、報道の後ですし。
せめて1年前からでも、「こういう計画があるよー」っていうことを広くお知らせしていれば、ここまで反発が大きくなることもなかったんじゃないかな。
そして今からでも、市民の声に耳を傾けてくれてもいいのにと思います。
別に悪いことしてるんじゃないんだから、もっと堂々と、しっかりと、反対の声に向き合ってくれてもいいんじゃない?

などと、長々と書き連ねてきましたが……。
私の個人的な意見を言えば、やっぱり再整備は残念だし、悲しいです。
金沢城公園に「花岡ちゃん」を思わせるものがほとんどない今、私にとって中央公園はより「花岡ちゃん」を感じられる場所です。

県が指摘している「大木の根が露出していて利用上支障となる」「樹木が重なり合って暗く見通しが悪い」といった問題点は、そのとおりなのですが、私なんかはまさにそういうところこそが魅力なのになーと思うのです。
街の中心部でありながら、野性味を感じさせるところ、ちょっとした林みたいな独特の暗さがあるところ、他の公園にはないかけがえのない魅力です。

中央公園の周辺は近年再整備が進んでおり、新たな緑地もつくられました。今も、駐車場であったところが工事中で、広い芝生の広場になるようです。
県は、中央公園周辺の緑地が拡大したから、そちらに緑地の機能を移行して、中央公園はイベント運営の機能を向上させたいと説明しています。また、新たな樹木の植栽をすることも示しています。
でも、これらにも?です。
今ある土の地面をなくして新たに土の地面を作る。今ある大木を切って新しい木を植える。
だったら、今あるものを生かすという方法もあるのに。
緑地の機能はこのまま中央公園に持たせて、イベント開催の機能はしいのき迎賓館周りの緑地に特化させるとか。

と、いろいろ疑問が湧いて出ちゃうのも、県があまりにも説明に消極的だから。
どんどん情報公開をして、「委員会」でどういう話し合いが行われたのか、どういう経過で今の計画内容に最終決定したのか。
そういう諸々のことがわかれば、納得できるかもしれないですし、少なくとも今のモヤモヤ感は晴れると思います。


:文章内において、北陸中日新聞の記事を引用させていただきました。また、中央公園内の写真2点と改修後のイメージ図は石川県ホームページの「中央公園の再整備について」のページから、中央公園の俯瞰写真と改修後の平面図は北陸中日新聞2013年4月26日朝刊の紙面から引用させていただきました。以下に、引用リンク、参考リンクを明記します。

【引用リンク/参考リンク】
石川県/中央公園の再整備について
中日新聞:北陸発:北陸中日新聞から(CHUNICHI Web)

【ブログ内関連記事】
清原なつの『花岡ちゃんの夏休み』―みやもり坂があった頃  2013年5月19日
佐倉統「少数意見の常駐」―中央公園問題小考 2013年5月22日




花岡ちゃんの夏休み (ハヤカワコミック文庫 (JA840))
清原 なつの
早川書房
売り上げランキング: 291,708

[PR]
by hitsujigusa | 2013-05-20 03:30 | 漫画 | Trackback | Comments(0)