可愛い黒い幽霊: 賢治怪異小品集 (平凡社ライブラリー)


【収録作】
「うろこ雲」
「女」
「〔ひのきの歌〕」
「沼森」
「小岩井農場 パート九」
「三七四 河原坊(山脚の黎明)」
「一四五 比叡(幻聴)」
「夜」
「〔ながれたり〕」
「四八 黄泉路」
「一〇七一 〔わたくしどもは〕」
「白い鳥」
「青森挽歌 三」
「手紙 四」
「黄いろのトマト」
「畑のへり」
「若い木霊」
「二一 痘瘡(幻聴)【先駆形】」
「タネリはたしかにいちいち噛んでゐたやうだった」
「春」
「一八四 「春」変奏曲」
「図書館幻想」
「〔われはダルケを名乗れるものと〕」
「真空溶媒」
「一〇六七 鬼語 四」
「三八三 鬼言(幻聴)」
「三八三 鬼言(幻聴)【先駆形】」
「〔丁 丁 丁 丁 丁〕」
「復活の前」
「三三七 国立公園候補地に関する意見」
「スタンレー探検隊に対する二人のコンゴー土人の演説」
「三一三 命令」
「花椰菜」
「あけがた」
「インドラの網」
「報告」
「月夜のでんしんばしら」
「ざしき童子のはなし」
「とっこべとら子」
「水仙月の四日」
「山男の四月」
「祭の晩」
「紫紺染について」
「毒もみのすきな署長さん」
「地主」
「五二〇 〔地蔵堂の五本の巨杉が〕」
「一九五 塚と風」
「一六 五輪峠【先駆形A】」
「さいかち淵」
「さるのこしかけ」
「一九 晴天恣意【先駆形】」
「三六八 種山ヶ原」
「種山ヶ原」
「種山ヶ原の夜」
「ちゃんがちゃがうまこ」
「上伊手剣舞連」
「原体剣舞連」
「原体剣舞連」


 8月27日は日本を代表する児童文学作家・宮沢賢治の誕生日です。ということで今回は宮沢賢治の作品集を紹介したいと思います。
 宮沢賢治の作品は童話、詩、歌など多岐に渡り、それらをまとめた作品集も星の数ほどありますが、この記事では文芸評論家でアンソロジストの東雅夫氏が編み平凡社から出版された『可愛い黒い幽霊 宮沢賢治怪異小品集』を取り上げます。
 タイトルにある通り、この作品集は“怪異”を基準に童話や詩が選ばれています。これらの作品は五つの章で区別され、「うろこ雲」から「手紙 四」までは「幽霊の章」、「黄いろのトマト」から「真空溶媒」までは「幻視の章」、「一〇六七 鬼語 四」から「報告」までは「鬼言の章」、「月夜のでんしんばしら」から「毒もみのすきな署長さん」までは「物怪の章」、「地主」から「原体剣舞連」までは「魔処の章」と、東氏によってジャンル分けされています。
 宮沢賢治というとファンタジックで幻想的で、ロマンティックでリリカルでというイメージはありますが、怪異、怪談というイメージはあまりありません。ですが、代表作である「銀河鉄道の夜」での死者との旅だったり、「注文の多い料理店」でのこの世のものでない料理店だったり、「風の又三郎」での風のように現れては去っていく謎の少年だったり、賢治作品には常に異界との接触が描かれていて、そう考えるとやはり、宮沢賢治という人は類い稀なる生粋の怪異の語り部なのだと思わされます。

 第1章である「幽霊の章」ではその名の通り、幽霊や死者との交流を描いた小品群がまとめられています。最後の「手紙 四」以外はすべて詩で、賢治独特の視点でとらえられた霊の世界が硬質に、時に柔らかく映し出されています。
 作品集の名の由来となった“可愛い黒い幽霊”という一文が登場する「うろこ雲」では何でもない夜の町が魔に魅入られ、「〔ながれたり〕」では幾体もの屍が水に流され、「白い鳥」では死した妹が白い鳥となって兄の前に現れる。雲や虹、月や風など一見美しいモチーフに彩られながら、そこに投影された生々しい感情や選択された言葉の鋭さには驚嘆とともに、恐怖さえも感じます。

 第2章の「幻視の章」について東氏は、「「視る人」である賢治が折にふれ垣間見ていたであろう、この世ならぬ光景が、驚嘆すべき言霊の力によって活写された一群の童話と詩篇を収録した」と説明。
 章の幕開けを飾る「黄いろのトマト」は、ある町の博物館の蜂雀の剥製が、男の子にぺムペルとネリの兄妹の話を聞かせるというストーリー。赤ばかりのトマトの中に実った黄金のような“黄いろのトマト”、遠くから聞こえてくる奇妙な音、赤いシャツと赤い革靴を纏った異国情緒漂う馬乗りの集団――。登場するモチーフは魅惑的で幻想的ですが、それらが組み合わさることによって生み出される得体の知れない不気味さ、何ともいえないゾワゾワする感じと哀しみは、賢治童話ならでは。
 「畑のへり」はある畑に住む蛙たちの視点で世界が描かれますが、普通の動物擬人化にならないところがやはり賢治童話らしさ。人間から見たら日常の一風景にすぎないものを、蛙にとっての異常なもの、恐るべきものとしてありありと書いていて、まさに宮沢賢治その人が非人間的な目を持った人だったのだと思います。

 第3章は「鬼言の章」。東氏によると、「もっぱら聴覚を通じて感得された異界の消息や、鬼神に象徴される超自然の存在による託宣の類を、強迫観念に充ち満ちた独創的文体で綴った一連の作品を収載」とのこと。
 冒頭に収められた「一〇六七 鬼語 四」や「〔丁 丁 丁 丁 丁〕」など、宮沢賢治のイメージを覆す詩群は、ある種の狂気を帯びていて、これが「銀河鉄道の夜」や「セロ弾きのゴーシュ」など美しくのどかな童話を書いた作家と同一人物かと疑うほどです。

 第4章「物怪の章」では月夜に闊歩する電信柱を描いた「月夜のでんしんばしら」といったホラー風味の奇怪なファンタジーが収められている一方、東北の風土を背景にした民俗学的な童話も収録されています。
 「水仙月の四日」は「月夜のでんしんばしら」などとともに、賢治の生前に発表された数少ない作品の一つで、絵本でも複数出ているのでわりと有名なのではないかと思いますが、雪深い東北ならではの自然の厳格さを“雪婆んご”や“雪童子”、“雪狼”など独特のキャラクターを用いて表現していて、冬の物語を得意とした賢治童話の魅力が凝縮されています。
 個人的におすすめなのは、「山男の四月」から「紫紺染について」までの“山男シリーズ”。“山男(山人)”は柳田國男の『遠野物語』にも登場する民俗学では定番の妖怪ですが、賢治が描く山男は一風変わっています。
 「山男の四月」は山男と珍妙な反物売りの支那人との不可思議な物語。一般的な描き方なら普通の人間と普通じゃない山男という対比になるのでしょうが、この作品では山男の視点で突然現れた謎の支那人が描写されていて、むしろ山男の方が普通の人化しています。
 「祭の晩」は主人公の少年亮二が秋の祭りの晩に山男と出会う話。ここでの山男は人間たちの社会で“山男”として存在を認識されながらも、普通の人間とは別個のものとして、虐げられる存在として描かれています。田舎の町の祭りの情緒をとらえつつ、人間と同じように祭りに高揚しながらも差別される山男、そんな山男に対し色眼鏡でなく素直な気持ちで接する少年の交流が、切なくもあり、おかしくもあり、ほのぼのとした雰囲気を醸し出しています。
 「紫紺染について」は盛岡の名産である紫紺染を巡る人間たちと山男とのちょっぴりおかしな攻防のドラマ。かつては名産だったものの明治以降西洋の安物に押されて廃れた紫紺染を県工業会の役員や工芸学校の教師たちが復活させようと考えるが、その詳細な製法を知るのが唯一山男のみということで、山男を西洋料理店に招待し話を聞き出そうとするが……というあらすじ。実際に紫紺染(紫根染め)は盛岡の伝統工芸品で、明治時代には衰退したものの大正期に再興したという歴史があり、この話もそうした事実をなぞっているわけですが、そこに山男という近代とはかけ離れたモチーフを持ち出し、しかも特産品を復活させるために山男に依頼するという一見突拍子もないようで、どことなくリアリティのある展開が、何ともいえないおかしみを誘っています。計算や思惑の下に動く人間たちと、何の企みもなく純粋に人間たちのもてなしに精一杯応えようとする山男とのギャップがおもしろく、ある意味人間より人間味に溢れる山男のキャラクターが印象的です。ただ、人間たちが悪人的に描かれているかというとそうでもなく、自分たちの目標、望みのために手段もいとわない人々の凡人ぶりというか、普通の俗っぽさというのが、逆に愛らしくも感じられます。
 このように各作品に登場する山男たちは人間と比較的近しい存在として定義されていて、この実感を伴った“近さ”こそが賢治が育った風土ならではなのでしょうし、また、賢治自身が山男に好感を抱いていたのかなという気がします。

 最後の章は「魔処の章」。“魔の処”=種山ヶ原とその周辺を舞台にした詩や童話が集められています。
 「さるのこしかけ」は少年楢夫が夕方、家の裏の栗の木の下に行くと、幹に白いきのこ“さるのこしかけ”が3つ出来ていて、そこに3匹の小猿が現れ、ひょんなことから猿たちに連れられやって来たのは種山ヶ原で……というストーリー。猿に案内されて幹に開いた穴から現実とは違う場所に行くという一見ユーモラスでほのぼのした雰囲気ですが、一筋縄ではいかないほの暗さみたいなものも含まれていて、種山ヶ原という場所が“魔の処”である感じがシンプルに表されています。
 その名も「種山ヶ原」という童話は、家畜の牛を追いかけて種山ヶ原に迷い込んだ少年達二の冒険譚で、「さるのこしかけ」よりも一層種山ヶ原のコアに踏み込んでいて、草原を渡る風や冷たい霧の粒、明るくなったり暗くなったりする空や速く走る鼠色の雲など幻想的かつ臨場感に満ちた自然描写を織り交ぜつつ、美しいだけで終わらない恐るべき場所である種山ヶ原の神髄が凝縮されています。
 そして最後に収められた2つの「原体剣舞連」は、前者が短歌、後者が詩となっていますが、田原村原体(現奥州市の田原)に伝わる伝統芸能“原体剣舞”にインスパイアされて書かれたといわれ、仮面を被り、剣を振りかざし、舞い踊る子どもたちや、特徴的な“ダーダーダーダーダースコダーダー”という節回しを描写しつつ、自身の宇宙世界が交ざり合って、“種山ヶ原”同様、現実の土地と賢治の目に映った世界とが呼応しているように思います。

 宮沢賢治の作品は多々絵本化もされていますし、まず賢治世界に親しもうという場合はそちらの方が入りやすいかもしれません。また、ネット上の青空文庫でもかなりの数の作品が公開されていてこちらもとても読みやすいのですが、あまりたくさんありすぎてどれから手を付けていいかわからないという場合もあるでしょう。そういった時はやはり何かしらの基準によって作品が選ばれている作品集が魅力的かと思いますし、さらに賢治世界に奥深く分け入りたいとなると、“怪異”という一点において企画されたこの作品集は、賢治のビギナーにとっても、コアなファンにとっても、多角的な楽しみ方ができる本なんじゃないかと思います。特に山男や種山ヶ原など賢治世界の中核をなす作品群は、誰にとってもとっつきやすい温かさをそなえていますし、一方で毒々しかったり死の匂いに満ちていたりととっつきにくい作品も世界を形成する欠かせない要素となっていて、賢治世界の両面を行ったり来たりできるという意味でも、ほかにないおもしろさを持った作品集といえます。今年は宮沢賢治生誕120年の区切りのいい年でもあるので、この機会にぜひ手に取って読んでみてはいかがでしょうか。


:記事内の引用部分は、宮沢賢治著、東雅夫編『可愛い黒い幽霊 宮沢賢治怪異小品集』(平凡社、2014年7月)から引用させていただきました。

【ブログ内関連記事】
宮沢賢治の絵本・私的10撰 2014年9月20日


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by hitsujigusa | 2016-08-25 22:48 | 児童文学 | Trackback | Comments(0)

空色勾玉 (徳間文庫)


【あらすじ】
 輝(かぐ)と呼ばれる神の一族が世を治めていた時代。羽柴の里で暮らす15歳の少女狭也(さや)は幼い頃に親を亡くし、優しい養父母に育てられた。
 若者たちが恋の歌を交わす祭りの日、楽人としてあちこちを旅して回る異郷人の一行が里にやって来る。一行は狭也に自分たちが輝と対立する闇(くら)の一族であること、狭也を探してやって来たこと、そして狭也が闇の巫女姫“水の乙女”の生まれ変わりであることを告げる。ともに輝の一族と戦おうと言う言葉に拒否感を示す狭也に対し、闇の人々は狭也が生まれた時に右手に握り締めていたという空色の勾玉を授けて去って行った。
 自らの出生の秘密に衝撃を受ける狭也。その前に突如、輝の御子である月代王(つきしろのおおきみ)が現れる。月代王に見初められた狭也は、輝の一族が住まうまほろばの都に采女として行くことになり――。


 迫る9月6日はまがたまの日。9と6の形が勾玉の形と似ていることから、皇室や出雲大社に勾玉を献上する株式会社めのやが6月9日と9月6日を“まがたまの日”と定めたそうです。そんなちょっとおもしろい記念日に引っ掛けて、荻原規子さんのファンタジー小説『空色勾玉』を今回はフィーチャーします。

 『空色勾玉』はファンタジー作家として活躍する荻原規子さんのデビュー作。それまでになかった本格的に日本神話を取り上げたファンタジー作品として高評価を得、今では日本人作家のファンタジーの大定番として真っ先に挙げられる作品の一つだろうと思う。
 『空色勾玉』は日本神話をモチーフにしながらも、それをなぞっただけの物語にはなっていない。日本神話の底に流れる本質、世界観、死生観など、エッセンスを的確に汲み取りながらそれを荻原さんなりに解釈し、荻原規子流とも言える日本神話を創り上げている。
 日本神話と一口に言ってもさまざまなエピソードがあるが、この作品ではイザナギ、イザナミと三貴子―天照大御神、月読命、須佐之男命―という神話の始めの部分を主たるモチーフにしている。ご存知の方も多いとは思うがざっくりとこの部分についてまとめると、男神(イザナギ)と女神(イザナミ)は国産みで豊葦原の中つ国を作り、続いて八百万の神々を生んでいったが、女神が最後に生んだ火の神のせいで火傷を負い亡くなってしまう。しかし女神を諦めきれない男神が女神に会いに黄泉の国を訪れると、すでに女神は変わり果てた醜い姿となっていた。それを見て地上に逃げ帰った男神は岩で道をふさぎ、男神と女神は地上と地下に完全に分かれた――というストーリーだが、『空色勾玉』では男神が輝の大御神、女神が闇の大御神としてそれぞれ敵対する一族となっている。そして輝の大御神は中つ国を一つに統治し支配するため、照日王(天照大御神)と月代王(月読命)を地上に遣わし、八百万の神々を一掃しようとしていて……というのが物語を貫く背景である。
 では、単純な光と闇の対立構造になっているかというとそうではなく、闇の一族の姫でありながら輝の一族の村で育ち、光を愛する少女が主人公というのが、この物語をよりいっそう重層的なものとしている。
 荻原さんは主人公を闇の人間にした理由を、こう述べている。


 主人公の狭也が闇の氏族であり、闇の側を中心にすえた物語の構想は、『延喜式』で知った大祓の祝詞から生まれました。大祓の祝詞は、人々の穢れを、川の神や海流の神や風の神が大海原まで追いやり、最後は根の底の国にいる女神が穢れを引き受けてさすらうと、神々の名前を列挙して説くものです。「水に流す」という観念をもつ日本人ならではの、どこか感動をおぼえるストーリーになっています。
 この、穢れを一手に引き受ける、汚れ役でありながら尊い女神が闇の大御神ならば、対立するものは光――輝しかありません。『空色勾玉』は、そんなふうに形をととのえていきました。
 (荻原規子『空色勾玉』徳間書店、2005年9月、349頁)


 つまり、光ありきではなく、闇の側に立った上での発想なのである。作中では輝の一族は不老不死、闇の一族は死んで転生を繰り返すとされ、それぞれ生と死、不変と変化、清いものと穢れたものを象徴してはいるが、どちらが善でどちらが悪でという描き方はされていない。キリスト教の影響が大きい西洋のファンタジーは光と闇の対立がそのまま善と悪の対立になることが多いが、この作品は光だけでも闇だけでも成り立たない日本神話が持つ世界観を正確に反映していて、善悪を問題にはしていない。
 荻原さんと思想家の中沢新一さんとの対談の中にも、こんな言及がある。


荻原 子どもの頃から、西洋のファンタジーが好きだったんですが、どれも光と闇の闘いになっているのが私の感覚にそぐわないなと、ずっと思っていました。
中沢 闇とか悪魔とかいわれる側のほうが、豊かでやさしい世界を持ってたりするんです。ヨーロッパの歴史も勝利者であるキリスト教の歴史です。で、それ以前の歴史を否定するために、自分たちが制圧した勢力を闇の世界に封じ込める。ところが、日本神話をよく読んでみると、世界は光と闇の対立構想ではできていないという思想がすけて見える。それを荻原さんははっきり取り出してみせた。
 (荻原規子『〈勾玉〉の世界 荻原規子読本』徳間書店、2010年11月、7頁)


 光と闇の対立どころか、日本神話はもっと複雑で猥雑である。海の神や山の神、風の神など自然を司る神もいれば、病んだイザナミの吐瀉物や排泄物から生まれた神もいるし、イザナギが殺した火の神の血や死体から生まれた神もいる。まさに八百万の神々なのだ。そこにあるのは光か闇かの二元論ではなく、光の中に闇が、闇の中に光が混じったような雑多さであるが、雑多であるということは言い換えれば豊かさでもある。二元論では説明しきれない、説明するとこぼれ落ちてしまう豊かさだ。光があり、闇があり、光でも闇でもないものがあり、それぞれの中に無数の豊かなものが含まれている。それはもちろん、美しいもの、清らかなものだけでなく、死や穢れの中にも存在する。穢れを引き受ける汚れ役の女神を尊いと感じた荻原さんの感覚は神話を創った古代の人々の感覚にも通じるものだろうし、だからこそ『空色勾玉』は単にモチーフを借りただけではない、日本神話の本質を突いた物語になっているのだと思う。

 ここまで日本神話という視点から『空色勾玉』について書いてきたが、もちろん日本神話を全く知らなくても充分におもしろい作品だし、逆に知らない方が変な先入観を持たずシンプルに物語として楽しめるかもしれない。荻原さん自身も日本神話を物語化しようと思ってこの作品を書いたわけではなく、あえて意識しないようにしながら書いたそうである。結果的には意識しまいとしたにもかかわらず、神話の強さに引っ張られてしまったようではあるが。
 しかし、そのあえて意識せずに書いたことが、『空色勾玉』の奔放さ、自由度に繋がっているように思う。たとえば、日本神話における天照大御神に該当する輝の御子の一人、照日王(てるひのおおきみ)はこの上なく美しいが、気性が激しく自己中心的な女性として描かれていて、一般的にイメージされる天照大御神とは全く異なるキャラクター性と言える。互いに憎み合う輝の大御神と闇の大御神、その三人の御子の関係性も、ある意味家族ドラマのような人間味あふれるものとなっていて、神々の話であるという前提を忘れさせる。
 また、主人公である狭也の恋愛も描かれる。ネタバレになるので詳しくは書けないが、恋をするヒロインの心理描写がとても繊細かつ丁寧に書かれていて、神話を下敷きにしているとかファンタジーであるとかいうことを差し置いて、ひとつの少女小説として楽しめるし、引き込まれてしまう。
 神話という概念にとらわれていたらこれほどの個性的なキャラクターたちや新鮮なストーリー展開にはなりえなかっただろうし、何よりこんなに生き生きとした人間ドラマは生まれなかっただろう。この作品は神話ファンタジーである以前に、血の通った人間たちの(もしくは神たちの)心の軌跡を描いた物語なのであり、それこそがこの作品が多くの人々の心を引き付け続け、読み継がれる最たる理由なのではないかと思う。

 神話ファンタジー、少女の成長物語、人間ドラマなどなど、さまざまな読み方ができ、いろんな観点から楽しめる『空色勾玉』。日本のファンタジー小説の金字塔に、ぜひ一度触れてみて下さい。ちなみに、『空色勾玉』は後に発表された『白鳥異伝』『薄紅天女』と合わせて“勾玉三部作”と呼ばれます。もし『空色勾玉』にハマったら、ぜひその続きもご一読を。
 なお、『空色勾玉』は現在いくつかのタイプで出版されています。ハードカバーの単行本、イラスト付きでカジュアルな新書判のノベルズ、気軽に手に取れる文庫本の3つ。以下のリンクもご参考に、お好きなスタイルで楽しんで頂ければと思います。


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by hitsujigusa | 2014-09-05 03:36 | 児童文学 | Trackback | Comments(0)

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 今回取り上げるのはイギリスの児童文学作家ダイアナ・ウィン・ジョーンズさん。魔法をテーマにしたファンタジー作品を数多く手がけ、ガーディアン賞、世界幻想文学大賞、フェニックス賞など国際的な文学賞をいくつも受賞し、2011年3月26日に76歳で亡くなりました。日本ではスタジオジブリの宮崎駿監督作品『ハウルの動く城』の原作を書かれた方として最も知られているのではないかと思います。
 そんなジョーンズさんの誕生日が8月16日。それを記念しまして、ジョーンズさんの代表作ともいえる『大魔法使いクレストマンシーシリーズ』の全7作を一気にご紹介します。


 『大魔法使いクレストマンシー』は異世界を舞台にしたファンタジーシリーズ。といっても登場する世界も、主人公も、各作品ごとに異なっている。
 シリーズの世界観はパラレルワールド。同時に複数の世界が存在し、それが12の系列に分けられ、各々の系列の中に9つの世界が含まれていて、同じ系列に属する世界同士は地理や地形がよく似ているという設定。そして、全ての世界のあらゆる魔法に関する事柄を監督するのが、“クレストマンシー”。クレストマンシーは個人名ではなく、その職に就いた者の称号なのである。そのクレストマンシーが普段暮らしているのは第12系列の世界Aで、私たちの世界(つまりこの現実世界)は第12系列の世界Bとされている。
 そんな世界観の下で繰り広げられるのが、魔法によって引き起こされる数々の事件・出来事。そういったトラブルを解決するために、キーパーソンとしてクレストマンシーが毎作登場するのである。
 では、シリーズ全7作を簡単に紹介していこう。


魔法使いはだれだ ― 大魔法使いクレストマンシー

魔法使いはだれだ ― 大魔法使いクレストマンシー

【あらすじ】
 魔法が固く禁じられた世界の寄宿学校のクラスで、ある日「このクラスに魔法使いがいる」というメモが発見される。誰が書いたのか分からない謎のメモに学校中が大混乱。しかも魔法の仕業としか思えない不思議な出来事が次々に起こる。魔法使いの血を引くことから犯人だと疑われた少女ナンは、仲間たちと一緒に古くから伝わる助けの呪文を叫ぶ。「クレストマンシー」! すると現われたのは――。

 魔法が禁止された世界での魔法事件を描いた作品。12の系列世界(日本語訳では“関連世界”とされている)の成り立ち、パラレルワールドの構成など、クレストマンシーシリーズの世界観全体についても分かるようになっている。
 寄宿学校、禁じられた魔法といった実にイギリスらしいモチーフで彩られていて、一見オーソドックスな魔法物語のように思えるのだが、登場する少年少女たちが一筋縄ではいかない個性の持ち主ばかりで、子どもたちの群像劇としても楽しめる。果たしてメモを書いたのは誰なのか……。この作品に限らないが、ミステリーとしての面もおもしろい物語だと思う。


クリストファーの魔法の旅―大魔法使いクレストマンシー

クリストファーの魔法の旅―大魔法使いクレストマンシー

【あらすじ】
 クリストファーは幼い頃から自分がいろんな谷を旅する不思議な夢を見ていた。クリストファーの能力に気づいた伯父の魔術師ラルフはその力を使って悪事を働こうとする。そんな時、クリストファーが9つの命を持つ強力な魔力の持ち主であることが判明し、クリストファーは次代のクレストマンシーとして魔法の城に引き取られる。しかし、孤独なままのクリストファーは別世界で出会った少女“女神”にのみ心を開き――。

 主人公はのちにクレストマンシーになる少年クリストファー・チャント。シリーズ中に登場する“クレストマンシー”の役職に就いている人物はふたり、通称“老クレストマンシー”のゲイブリエル・ド・ウィット、そして現クレストマンシーであるクリストファー。上述した『魔法使いはだれだ』に出てくるのは現クレストマンシーの方で、この『クリストファーの魔法の旅』はクリストファーがクレストマンシーになる前の少年時代を描いている。
 この作品の魅力は何といってもさまざまな世界が登場すること。特別な力を持つがゆえに時空を超えて“関連世界”を行き来できるクリストファーはいろんな世界を旅するわけだが、そうした異世界の数々の描写がとても楽しい。パラレルワールドという世界観の醍醐味を味わえる物語と言える。


魔女と暮らせば―大魔法使いクレストマンシー

魔女と暮らせば―大魔法使いクレストマンシー

【あらすじ】
 グウェンドリンとキャットの姉弟は両親を亡くし、近所の人々に助けてもらいながら暮らしていた。グウェンドリンは強い魔法の力を持っていて、気弱なキャットはそんなグウェンドリンの言いなりだった。ところがふたりは親戚であるクレストマンシーの城に引き取られることに。城では自由に魔法を使ってはならず、きちんとした生活を強いられるが、女王さま気質のグウェンドリンはそれに我慢がならずとうとう城を飛び出して――。

 今作に登場する“クレストマンシー”はクリストファー。そのクレストマンシーのところに親戚の子どもであるグウェンドリンとキャットの姉弟がやってきて、さまざまなトラブルが起こって……という話。物語で最も印象に残るのは姉グウェンドリンの強烈な存在感。これはダイアナ・ウィン・ジョーンズ作品の定番とも言えることなのだが、とにかく強い女の子というのがよく登場する。性格的にきつめで、相手が男の子だろうが大人だろうが一歩も引かない少女。そういう女の子を書かせたら児童文学界でジョーンズさんの右に出る者はいないんじゃないかと思えるくらいユニークで魅力的。
 一方、男の子はそれと比例するように大人しめというパターンが多い。そういった少女と少年のコンビネーション、組み合わせがこの作品でも面白味のひとつとなっている。


トニーノの歌う魔法―大魔法使いクレストマンシー

トニーノの歌う魔法―大魔法使いクレストマンシー

【あらすじ】
 イタリアの小国カプローナでは魔法の呪文づくりの名家であるモンターナ家とペトロッキ家が長年反目し合っていた。ところが両家の魔法の力がなぜか弱まり、他国からの侵略という危機が訪れる。クレストマンシーが両家に忠告するも、互いに相手方を非難するばかりで進展はない。そんな中、モンターナ家の少年トニーノとペトロッキ家の少女アンジェリカが突然行方不明になって――。

 この作品の舞台はイタリア。そのため主にイギリスが舞台になっているほかのシリーズとは少し色合いが違い、とにかくイタリアらしい陽気さ、華やかさが印象に残る。また、イタリアでいがみ合うふたつの名家と言えば「ロミオとジュリエット」を思わせるが、そういったドラマティックさも魅力となっている。
 ちなみにこの作品のクレストマンシーはクリストファーである。


魔法がいっぱい―大魔法使いクレストマンシー外伝

魔法がいっぱい―大魔法使いクレストマンシー外伝

 この作品は長編ではなく、クレストマンシーに関係する人々の活躍を描いた短編集。「妖術使いの運命の車」「キャットとトニーノの魂泥棒」「キャロル・オニールの百番目の夢」「見えないドラゴンにきけ」の4編が収録されている。中でも「キャットとトニーノの魂泥棒」はタイトルで分かるとおり、『魔女と暮らせば』の主人公キャットと『トニーノの歌う魔法』の主人公トニーノのふたりが同時に登場する話で、違う作品の主人公同士が出会うとこんな感じになるのか……という見どころ・お得感たっぷりの作品となっている。


魔法の館にやとわれて―大魔法使いクレストマンシー

魔法の館にやとわれて―大魔法使いクレストマンシー

【あらすじ】
 12歳の少年コンラッドは魔術師である伯父から、「高地の貴族の館にいるある人物を倒さない限り、お前の命は長くない」と言われ、その人物を探すため館に奉公に行くことにする。そこで出会ったのは同じく従僕として雇われた年上の少年クリストファー。どうやらクリストファーも何かしらの目的を持って館に来ているらしい。そんな時、ふたりは館の屋根裏で異世界に続く扉を見つけ――。

 あらすじでお分かりかもしれないが、今作もクレストマンシーになる以前のクリストファーが登場する。このクリストファーは『クリストファーの魔法の旅』から数年経っていて、りりしい少年となった姿が見られる。
 とはいえ主人公はコンラッド。自分の運命を打開するために魔法の館に入り込んだコンラッドが、さまざまな不思議な出来事に遭遇し冒険するさまが実に楽しく、クリストファーとの友情や、また恋愛模様も描かれ、青春物語としても読める。


大魔法使いクレストマンシー キャットと魔法の卵

大魔法使いクレストマンシー キャットと魔法の卵

【あらすじ】
 クレストマンシーの城で暮らすキャットは、ある日近くの村でマリアンという少女と出会う。マリアンの一族は代々続く魔女の家系で、一族の頭であるマリアンの祖母は最近別の一族と対立しているらしい。そんなマリアンの祖母の屋根裏に長年置かれていた謎の卵をキャットは譲り受けることとなり――。

 『魔女と暮らせば』の主人公キャットの1年後を描いた作品。前作でいろんなことを経験したキャットの成長した姿が微笑ましい。が、またもや魔法のトラブルに巻き込まれてしまうところが、キャットの宿命というか相変わらずな部分でおもしろい。アイテムとして魔法の生き物や機械も登場し、マジックファンタジーらしさに溢れた内容となっている。


 
 というのがシリーズの概要だが、上に並べた順番は日本で出版された順番で、本国イギリスでの出版順とは違う。最初に出版されたのは1977年の『魔女と暮らせば』、次に1980年の『トニーノの歌う魔法』、1982年『魔法使いはだれだ』、1988年『クリストファーの魔法の旅』、2000年『魔法がいっぱい』、2005年『魔法の館にやとわれて』、2006年『キャットと魔法の卵』という順になっている。
 また、時系列順に読むという方法もあって、その場合は『クリストファーの魔法の旅』『魔法の館にやとわれて』『魔女と暮らせば』『魔法使いはだれだ』『トニーノの歌う魔法』『キャットと魔法の卵』という順番に読むと、クリストファーの成長や時間の流れがわかるようになっている。
 ただ、シリーズはあくまでも連作という形で1冊1冊が独立しているので、どれから読んでも変わらずシリーズの世界を楽しむことができると思う(外伝である短編集は別として)。


 『大魔法使いクレストマンシーシリーズ』の魅力はさまざまあるが、まず一つを提示するならば世界観の巧みさが挙げられる。
 シリーズは1作ずつ別の話で、ひとつひとつの物語の中で魔法にまつわる事件が起こり、善と悪が戦ったりするわけだが、それらは基本的にはとても小さな物語と言える。たとえば同じイギリスの名作ファンタジー『指輪物語』や『ナルニア国ものがたり』のように大勢の人間同士が戦争をしたり命がけの冒険をしたりするわけではなく、日本の名ファンタジー『守り人シリーズ』や『十二国記シリーズ』のように国の存亡をかけた政治的な争いが起こるわけでもない。あくまで、ある場所、もしくはある人物を中心に魔法に関連したトラブル・事件が起きるというだけで、物語の規模としては決して大きくない。もちろんそんな中でもキャラクターたちの危機や人生をかけた冒険というのは書かれるわけだが、あくまでも個人的なものだし、ほのぼのとした雰囲気もある。
 しかし、そういった複数の人々の人生の積み重ね、出来事の重なりによって、シリーズ全体を見渡した時に不思議な壮大さが生まれる。それはやはり、描かれている世界の多様さ、豊かさというのが理由なのではないかと思う。12ある世界の中にさらにそれぞれ9つの世界が含まれ、異なる文明・文化を持ち、魔法が盛んな世界もそうでない世界もある。人間も生き物も多種多様、魔法も機械も何でもアリ。そういった世界の在りようが子どもだましではなく、私たちの住む世界のほかにも地球にはいくつもの世界が同時に存在しているのではないか、そう思わせる空気感と臨場感を持って描写されている。そうした魅力的かつよく考えられた世界観が、このシリーズにある種の壮大さを与え、よりいっそうおもしろい物語にしている。


 ただ残念なことに、ダイアナ・ウィン・ジョーンズ作品(以下、DWJ作品)は好き嫌いが分かれやすい小説だとしばしば言われる。その原因となっているのはDWJ作品特有の“しっちゃかめっちゃか感”だろう。
 とにかくどの作品にしても賑やかな小説である。次から次へとキャラクターたちが登場し、次から次へとトラブルを引き起こす。物語が進行するスピードも速く、コロコロコロコロと展開が変わる。そうしているうちに話の筋道が分からなくなり、うっかりすると今ストーリーがどういう方向へ向かっているのか、何が起ころうとしているのか読めなくなってくる。起承転結もあるような無いようなで、まるで迷路に迷い込んだかのような不思議な感覚に陥ってしまう、それがDWJ作品の特徴なのである。
 人によってはそのために話がよく分からないという人もいるだろうし、逆にその特殊な感覚を何とも言えない快感として感じる人もいる。その点を楽しめるかどうかで、好き嫌いが決まるのだろうと思う。
 が、その独特な“しっちゃかめっちゃか感”がDWJをDWJたらしめていることは間違いない。“しっちゃかめっちゃか”であるということはプロットやストーリーがテキトーであるということとは違う。事細かに練られ、計算された上での“しっちゃかめっちゃか”なのだ。
 ジョーンズさんはかつてオックスフォード大学に在籍し、『指輪物語』を著したトールキンや『ナルニア国ものがたり』を著したルイスに師事している。至極正統なイギリスファンタジーの後継者と言える人物だ。当然ファンタジーのセオリーや“約束事”を知り尽くしている。それを充分に学んでいない人間がファンタジーらしい設定やモチーフを用いてファンタジーを書こうとしても単なるエセファンタジーにしかならないが、確かなファンタジー創作の地盤を持つジョーンズさんはファンタジーの定型を踏襲し巧みに利用しながら、そこに自分の色を加え独自の解釈を与えることで、読者の想像を裏切る独創的なファンタジーを創り上げたのだ。だからこそどんなにストーリー展開やキャラクターが“しっちゃかめっちゃか”でも、“テキトー”な物語にはなりえないのである。


 ほかにもDWJ作品の魅力は数多くあって(うまく張り巡らされた伏線とか、あっと言わせるどんでん返しとか意外なオチとかetc……)、しかしそれを一つ一つ取り上げると大変なことになるし、それ以上にどれだけ言葉で伝えようとしても言葉で言い表すことのできない不思議な感じがDWJ作品の最大の魅力なので、ぜひ試しに手に取って読んでみてほしいと思う。
 ジョーンズさんの著作ならどれもおすすめなのだが、やはり『大魔法使いクレストマンシーシリーズ』にDWJ作品のおもしろさ・醍醐味が凝縮されているように思う。まずは外伝以外の長編1冊を選んでいただいて、ダイアナ・ウィン・ジョーンズの世界にどっぷり浸ってほしい。


:ジョーンズさんのポートレート写真は、子ども向け書籍の出版社「Greenwillow Books」の公式ブログが2011年3月28日の10:32に配信した記事「Diana Wynne Jones 1934–2011」から引用させていただきました。

【ブログ内関連記事】
幽霊を描いた小説・私的10撰 2015年7月24日  記事内でダイアナ・ウィン・ジョーンズ氏の『わたしが幽霊だった時』を取り上げています。


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by hitsujigusa | 2014-08-15 02:30 | 児童文学 | Trackback | Comments(0)

時計坂の家



【あらすじ】
夏休み、普通の女の子フー子はいとこのマリカから手紙で誘われ、母の故郷で今も祖父が住む港町、汀舘を訪れる。祖父の家は、煉瓦造りの時計塔がそびえていることからそう呼ばれる時計坂にあった。独特な雰囲気を持つ祖父とお手伝いさんのリサさんに戸惑う中、ある日フー子は、階段の踊り場の変な位置に設置された窓に目を止める。外には普通の風景が広がる何の変哲もない窓。しかし、フー子が再び目をやると、窓の外には緑あふれる庭が出現していた―。


8月もあと数日……。ということで、夏のうちに読んでほしい作品を、もう1冊。高楼方子さんのファンタジー『時計坂の家』。

この作品の魅力を言葉で表すのは難しい。

物語は下地だけ見れば非常にオーソドックス。主人公はどこにでもいる普通の女の子、古い謎めいた一軒家にまつわる秘密、美少女のいとこ、何かを隠しているような祖父、そして突然現れる美しい庭―。悪く言えばありきたりな話だが、これだけおなじみのモチーフが散りばめられているからこそ、ある種の安心感を持って読み進められる。
しかし、予定調和的に話が進むにつれ、逆に不安が生じてくる。本当にこのまま進んでいくのか? この穏やかさが保たれるのか? 何かが起こりそうな不穏な気配、予感がじわじわと広がっていく。
主人公を始めとする少女少年たちの明るさと謎に包まれた一軒家の暗さとが作り出す不思議な明暗。まさに、この明暗、光と闇の混在がこの物語の最大の特徴と言える。

少し脱線するが、これが夏休みの話だというのも意味深い。子どもが夏に見知らぬ土地へ行き、冒険する話は多いと思うが(たぶん)、なぜ夏なのだろう。夏休みがあるからという物理的な問題は別にして、夏という季節特有の明るさに理由があるのだろうと思う。『スタンド・バイ・ミー』にしても『夏の庭』にしても、燦々と太陽が照りつける光に満ちあふれた雰囲気のなかで、少年たちは暗い現実に直面する。以前、山川方夫の記事を書いた時にも同じようなことを指摘したが、夏という明るい空気の中に暗いものを置くことによって、その暗さがより強調されるのだ。
そういった意味では、この物語の主人公フー子も必然的に、夏の“明”の中で“暗”を発見するのである。

さて、本線に戻ろう。
光と闇の混在が最大の特徴だとして、では最大の魅力は何か。
それは作中に登場する“場”である。

この作品の舞台となるのは架空の港町、汀舘(みぎわだて)である。しかし、作中の風景描写を見ても作者の高楼さんが函館出身であることを鑑みても、汀舘は函館だろう。
汀舘は古くから異国の船を迎え入れた港町とされ、物語全編に渡ってその街並みの美しさが描かれる。

 坂を少しおりただけで、海はぐんと近くなった。左手に見える、赤と白の縞に塗られたドックは、巨大な磁石を海につきたてたようだ。右手には、ずっとずっと遠くの山並みが、海の向こうに青くかすんでいる。そして、色紙をちぎったような鮮やかさで岸に群れる、何叟もの船が、その光景の中心を飾っている。(高楼方子『時計坂の家』リブリオ出版、1992年10月、93頁)

 やがてフー子は、屋根の赤い教会と、緑色の教会とが、ふたつとも視野に入るところまで来た。そのあたりは、汀舘の、いちばん美しい一画かもしれなかった。石畳も街燈も、道に沿った黒い鉄柵からあふれだすたわわな緑葉も、その一画に建つ堅牢な建物とみごとに溶けあい、おだやかな朝に輝いている。(同書、93頁)

この作品に限らず、高楼さんはノスタルジックな風景描写を得意としている。その景色に馴染みのない人間でも、なぜか既視感を覚えノスタルジーを掻き立てられる。そういった場の存在感を見事に描き出すのだ。

その描写力が最大限に生かされているのが、祖父の家に突然現れる不思議な庭である。

 絡あいながら生い繁る、鬱蒼とした緑の垣根にはさまれて、フー子は立っていた。どちらの垣からも、不格好なほどに渦を巻いた茶色の蔓がとびだしていて、今にも頬にふれそうだった。ところどころに、カッと見開くように咲いているのは、やはりあの、時計と同じ花で、コチコチコチと時を刻みながら、おしべとめしべが回っていた。左右の植物はみな、フー子の背よりも遥かに高くのび、空にいたっていたが、その空には、淡い霧がかかっていて、先はかすんでいた。霧は、ほんのり薔薇色に見えた。(同書、54頁)

この庭は踊り場の窓の外に突如として出現し、フー子を誘う。まさに魔法としか言いようのない非現実的、空想的な庭だ。しかし、ただ美しく魅力的なだけではない。実在する場のごとし重厚な存在感があるのだ。
この庭のなかでフー子は美しいものを見る一方、事故死したとされる祖母の死の謎にも迫る。美しい場にひそむ闇、暗い過去。それが真実味を持って迫ってくるのは、実在感のある“場”の力があってこそだろう。

少女の一夏の成長譚『時計坂の家』。どこか懐かしい夏の雰囲気を、ぜひ夏の終わりのいま味わってほしい。


【ブログ内関連記事】
夏に読みたい小説・私的10撰 2014年7月8日  記事内で高楼方子『時計坂の家』を取り上げています。


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by hitsujigusa | 2013-08-30 19:32 | 児童文学 | Trackback | Comments(0)

新装版 ムーミン谷の彗星 (講談社文庫)



【あらすじ】
長い雨が降り続いたムーミン谷。雨が上がるといろんなものがどす黒くなっていた。「地球がほろびる」というじゃこうねずみの言葉に、ムーミントロールやスニフはパニック。そんなふたりを落ち着かせるために、ムーミンパパは天文台へ行くことを提案。ムーミントロールとスニフは天文台があるおさびし山へと旅立つが……。

今日、8月9日はムーミンの日。作者のトーベ・ヤンソンさんの誕生日。
ということで、今回はムーミンシリーズの第1作、『ムーミン谷の彗星』です。(

“ムーミン”というと、可愛いキャラクターやファンタジー的なイメージが強いが、この小説版ではかなりシビアなことも描かれている。なにしろ彗星が地球に向かってくるのだ。こんなにシビアなことはない。
しかもこどもだましのシビアさではない。雨が降り続いたり、いろんなものがどす黒くなったり、空気中にりんのにおいがしたり、空が赤くなったり、よくよく考えればものすごくリアルな自然の脅威が描かれている。
この作品に限らず、ムーミンシリーズの魅力のひとつは、こういった自然の描き方だろう。身近な自然や自然現象を美しく描くのはもちろん、彗星や洪水のような恐ろしい自然もきちんと描く。
そうしたところからは、ヤンソンさんの自然に対する敬意が感じられる。
やはり故郷フィンランドの風土が反映されているのだろう。森や湖が点在し、豊かな海にも恵まれたフィンランド。しかし、夏は短く冬は長く、厳しい。自然から与えられるものもあれば、我慢しなければならないこともある。
自然とともに生きるということの大変さ、けれどその幸せが描かれている。
それを最も感じられるのが、彗星が過ぎた後に、干上がった海が戻ってくるシーン。

 ふたりが、だまってすわったまま、まっていると、空の光が、ずんずんつよくなってきました。朝日がのぼりました。しかも、いつもとすこしもかわりのない朝日でした。
 いまは、海がなつかしい海岸にむかっておしよせてきて、日がのぼるにつれて、青く青くなっていきました。波がもとのふかみに流れこみ、底におちつくと、みどり色になりました。
 どろの中にかくれていた、およぐもの、くねるもの、はうもの、すべて海の生きものが、すきとおった水の中へ、おどりあがりました。海草もたちなおり、太陽にむかってのびはじめました。そして、うみつばめが一わ、海の上へとびだして、あたらしい朝がまたやってきたことを、つげました。


いつもの朝や海が見られるということ、いつもの日常が帰ってきたのだという喜びが、ひしひしと感じられる。そこにある自然や日常の風景を慈しむ心を思い出させてくれる場面だ。

日常を大切にするといえば、その精神はまさにキャラクターたちに受け継がれている。
ムーミントロール始めムーミン谷の人びとは、多少あわてはするが、それでもいつもの自分らしさを忘れない。ムーミントロールは彗星なんかパパとママがちゃんとしてくれると言い、スニフは自分が見つけた子ねこを気にかけ、ムーミンママは逃げる時にもデコレーションケーキやバラを持っていく。それどころか、ダンスをしたり、石ころがしをしたり、買い物をしたり、悠長なものである。
でも、それは落ち着いているとかいうのではなく、そうすることしかできないからなんだろうと思う。非常時でも、いつもどおりのことしかできない正直ないきものたち。けれど、正直かつマイペースであることによって、彼らはどんなときでも“自分らしさ”を忘れず、二度と訪れることのないかけがえのない一日一日を、最大限楽しみながら生きている。
なかなか人間には真似できないけれど、ムーミントロールたちは現代人が忘れかけている大切なものを教えてくれるのではないかと思う。


ムーミンシリーズで最初に書かれたのは『小さなトロールと大きな洪水』ですが、この作品はしばしばメインのムーミンシリーズの前日譚として位置づけられることがあり、そのため講談社が出版している日本語版では『ムーミン谷の彗星』が第1作とされています。

:記事内の引用は、トーベ・ヤンソン著『ムーミン谷の彗星』(講談社、2011年4月)からです。

【ブログ内関連記事】
おーなり由子『ひらがな暦 三六六日の絵ことば歳時記』―日常の幸福


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by hitsujigusa | 2013-08-09 00:53 | 児童文学 | Trackback | Comments(0)

もしもしニコラ! (fukkan.com)


【あらすじ】
パリのアパートに住む女の子リーズ。ある夜、お父さんは夜警、お母さんは看護師で夜勤のため、一人で留守番することに。ベッドの中で怖くなってきたリーズは枕元の電話に手を伸ばし、適当にダイヤルを回す。すると、ノルマンディーのラ・モワヌリーに住む男の子ニコラにつながり……。


『もしもしニコラ!』は1975年にあかね書房から出版されたが、その後絶版に。が、絶版の本を投票で復刊させるリクエストサイト「復刊ドットコム」に寄せられたリクエストによって2005年に復刊した。
特に有名というわけでもない、作者も日本ではほとんど知られていないが、こうして復刊したということはそれだけ多くの人の心に残る作品だったということなのだろう。
かくいう私も、小学生の頃読んだきりだったがなんとなく気になり続けていて、数年前検索して復刊したことを知った。

いちばん私の印象に残っているのは、主人公リーズの暮らしぶり。生粋のパリッ子であるリーズの生活は、とにかくおしゃれでかわいくて素敵なものに子どもの目には映った。
そもそも、子ども部屋のベッドの枕元に電話があるということ自体が信じられなかった。今なら携帯やスマホを持っている小学生も多いが、私が子どもの頃はまだなじみがなかったし、現代だって子どもが自分だけの固定電話を持っているというのは珍しい。(というか携帯があれば必要ないのだけど)
そしてリーズの日常場面。学校から帰ってすぐお母さんとケーキを作ったり、種屋に種を買いに行ったり、泡風呂に入ったり(しかも風呂あがりはバスローブを着る)。
こうしたいろんな日常の風景がとても新鮮で、こんな生活をしたいとパリに憧れた。
また、話の合間にはさまれているパリの風景描写も憧れの気持ちを強めた。
たとえばこんな場面。

 くしゃくしゃの髪、眠くてはれぼったい顔をしたリーズは、窓ガラスを流れるしずくのあとを指でたどっています。パリは、灰色。明るい色や、暗い色、楽しげなのや悲しげな色のいろいろなかさが、雨に光る歩道に舞っています。(ジャニーヌ・シャルドネ『もしもしニコラ!』ブッキング、2005年2月、88頁)

 通りにでると、いそがしそうな人たちが、せかせか歩いています。この人たちには、プラタナスにいるすずめたちのなき声も聞こえないのかしら? 木の葉は、すずめのはばたきで、サワサワと音をたてています。雲間からさしこむ太陽の光が、楽しそうに、鳥たちとたわむれていました。空気は、しぼりたてのレモネードみたいに、はだにさわやかに感じられます。(同書、109頁)

パリの空気が伝わってくる文章で、パリという街の美しさが描き出されていると思う。
もうひとつ重要なのが、主な舞台となっているアパート。アパートと言ってもいわゆるアパルトマンのことで、古く歴史のある建物という感じがよく表れている。きれいというのではなく、古さゆえの独特の暗みや静けさである。物語の始まりも、夜にひとりぼっちのリーズが恐怖を感じ始めることから。
そういったいろんな“パリらしさ”がそこかしこに描かれているのが、何よりこの物語の魅力だと思う。

という感じに、リーズの生活やパリの雰囲気ばかりが印象に残っていたが、最近になって久しぶりに読み返してみたところ、んん? と思うところもあった。
リーズ一家の部屋の真上の屋根裏部屋に貧しいおばあさんが引っ越してくるのだが、そのことについてのリーズとお母さんの会話。

「もう、いわないわ。ねえママ! でも、屋根裏部屋に住むなんてへんじゃない?」
「きっと、貧乏なおばあさんで、高いお家賃がはらえないのよ。」
「じゃ、ふしあわせな人なのね。」
「そうでしょうね。」
「それなら、あのおばあさんに、家にきてもらったら?」
「まあ、リーズ、それは無理というものよ。だって、うちは寝室が二つ、ベッドも二つしかないんですもの。」
「あたし、おばあさんに、なにかしてあげたいわ。」
「そのうちに、きっとお役に立つようなときもあるわよ。お年寄りって、ほんのちょっとしたことでも、喜んでくださるものよ。」
(同書、49頁)

思わずつっこみたくなった。翻訳文のニュアンスにもよるのかもしれないし、もちろん時代の変化もあるだろうが、それにしてもだ。二人は差別しているわけではないだろうが、貧しい人に対して上から目線というか、貧しい人というのは不幸なものだ、自分たちは裕福なのだから助けてあげなきゃ、相手も当然喜んでくれるだろう、というのがありありと見えて、ちょっと考えてしまった。
助けてあげようという精神が悪いわけではないが、相手もそれを受け取って当たり前、という押しつけがましさがあるような気がする。それと、お年寄りは優しいものというステレオタイプな決めつけも気になる。

まあ、こういうマイナス点はあるものの、私が疑問に感じたのはそれくらいで基本的には良い作品。
この物語のいちばんのテーマ、読みどころは、パリに住む都会っ子のリーズとノルマンディーに住む田舎っ子のニコラ、ふたりの暮らしの対比。
夜を怖がるリーズに対し、ニコラは……

「それで、ニコラ、夜こわくないの?」
「ぜんぜん。それに、今、ここは、暗くないんだよ。」
「まあ、パリみたいじゃないのね。」
「お月さまが、ぼくの部屋の窓のまん前にあるんだ。すごーく大きくて、赤いんだよ。ちょっとお日さまみたいだけど、光は、ずっとやわらかくって、つやがあるな。ね、きみも、カーテンをあけてみたら? 月が見えるよ。」
「さあ、どうかしら……。だめだわ。まわりの建物が高すぎちゃって、まっ暗な空が帯みたいに見えるだけ。」
(同書、13頁)

このほかにもニコラは、農場の動物のこと、花や日の出など豊かな自然の風景のことをリーズに聞かせる。田舎をあまり知らないリーズは、ニコラと話すことで知らなかった世界に触れる。
こういう都会と田舎の違い、それぞれで育った子どもの感覚の違いみたいなものは現代にも通じる。今では、田舎といってもテレビやインターネットのおかげ?で都会的な環境に近づいていて、世の中が均一化しているというのはあるだろう。とはいえ、田舎でしかできない体験、田舎にしかない風景というのはあり、都会ではどんどん自然が失われてますます都会化しているから、ある意味都会と田舎の差は広がっていると言えるかもしれない。
この作品はそこまでひどい差は描いていないが、そういうものの一端を見せてくれる。都会と田舎の対比という見方で読んでもおもしろい物語だと思う。


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by hitsujigusa | 2013-06-25 02:40 | 児童文学 | Trackback | Comments(0)

日本児童文学名作集〈下〉 (岩波文庫)


【ブログ内関連記事】
桑原三郎・千葉俊二編『日本児童文学名作集〈上〉』―日本児童文学の夜明け


【収録作】
「蜘蛛の糸」芥川竜之介
「三人兄弟」菊池寛
「笛」小島政二郎
「一房の葡萄」有島武郎
「木の葉の小判」江口渙
「三人の百姓」秋田雨雀
「寂しき魚」室生犀星
「幸福」島崎藤村
「蝗の大旅行」佐藤春夫
「でたらめ経」宇野浩二
「手品師」豊島与志雄
「ある島のきつね」浜田広介
「水仙月の四日」宮沢賢治
「オツベルと象」宮沢賢治
「鷹の巣とり」千葉省三
「影法師」内田百閒
「魔法」坪田譲治
「大人の眼と子供の眼」水上滝太郎
「がきのめし」壺井栄
「月の輪グマ」椋鳩十
「牛をつないだ椿の木」新美南吉


6月8日にアップした〈上〉に引き続き、〈下〉をご紹介。
大正7年(1918)~昭和18年(1943)の作品で、こちらも〈上〉と同様におおむね発表順に収録されている。
日本児童文学の黎明期であった〈上〉と比べ、この大正から昭和の作品群はより自由に個性的に表現がなされていて、バラエティ豊かになっているので、読み物としては〈上〉より面白いんじゃないかと思う。

そして重要なのは『赤い鳥』の存在。
『赤い鳥』は鈴木三重吉が大正7年に創刊した児童雑誌だが、〈上〉の解説でこう説明されている。

創刊のプリントを見ると、「西洋人とちがって、われわれ日本人は哀れにも未だ嘗て、ただの一人も子供のための芸術家を持ったことがありません」とある。だからこそ、『赤い鳥』によって「芸術として真価ある純麗な童話と童謡を創作する」最初の運動を、当今文壇一流の作家詩人の協力を得て推し進めたい、と三重吉は主張したのであった。〉(桑原三郎・千葉俊二編『日本児童文学名作集〈上〉』岩波書店、282頁)
結果として『赤い鳥』の運動は、これまでの小波流のお伽話とは違った、大人の文学の一ジャンルとしての童話童謡の世界を世に齎したばかりでなく、児童自身の製作する綴方、自由詩、自由画等をも開拓して、日本の子供たちの自由な表現の展開に大きな貢献をしたのであった。〉(同書、283頁)

「大人の文学の一ジャンルとして」というところがある意味問題で、『赤い鳥』が批判される点でもあると思うが、それでもたしかに『赤い鳥』掲載作品には良質なものが多く、〈下〉収録作のうち8編が『赤い鳥』初出である。

全てを取り上げることはできないので、特におすすめのものを。

【笛】
昔、京都に博雅の三位という笛吹きの名人がいた。ある時、彼の家に4、5人の泥棒が入った。博雅は床下に隠れたが、泥棒たちは手あたりしだい散らかし、盗み出していった。しかし、唯一笛だけは残されていて……。
小島政二郎は現代ではいまいち知られていない気がするが、『赤い鳥』の編集に携わったり、鈴木三重吉の奥さんの妹と結婚したりと、文壇の中心にいた人物のようである。大衆小説の世界でも活躍し、Wikipediaには「人気作を次々執筆し、映画化もされ、そちらも人気を集めるなど、戦前から戦後にかけて一世を風靡した。」とある。芥川賞や直木賞の選考委員など文壇の重鎮としても活躍し、1994年100歳で亡くなった。
そしてこの「笛」。ベースとなっているのは『古今著聞集』のなかの2編、「429 盗人、博雅の三位の篳篥を聴きて改心の事」と「430 篳篥師用光、臨調子を吹き海賊感涙の事」である。この2つを合体させ、1つの話として構成している。
このように昔の説話から題材を取る作家と言えば芥川龍之介が有名。小島政二郎は親交があった芥川のことを敬愛していたようで、大正文壇史として有名な自伝小説『眼中の人』や、その名も『芥川龍之介』という伝記? に芥川の思い出を綴っている。そういう見方で「笛」を見ると、題材の取り方も作風も芥川の影響を受けている感じがする。

【寂しき魚】
ある沼に一匹の古い魚が棲んでいた。古い魚はいつも何かを考えているように大人しい泳ぎをしていた。夜になると沼から三里ほど離れている都会の明かりが沼にまで届いた。古い魚は都会に憧れ、地上に出ていきたいと夢見るが……。
以前も室生犀星の作品を紹介し、その独特の暗さを指摘したが、この「寂しき魚」もやはり暗い。
主人公の古い魚は暗い沼を嫌悪し、明るい都会を憧憬する。そして犀星自身、自分の生まれや容貌にコンプレックスを持ち、東京に憧れ上京を夢見ていた。古い魚の姿はそのまんま犀星に重なる。
ところで犀星は魚を題材とした作品を多く書いている。「七つの魚」「哀れな魚」「燃える魚」「不思議な魚」「魚と公園」「火の魚」「魚になった興義」などなど。日本を代表する魚作家と言えるかもしれない。

【蝗の大旅行】
「僕」は去年台湾へ旅行をした。「僕」は阿里山に登るために嘉義という町に行ったが、登山電車が壊れていたために山へは登れず、無駄に2泊した後汽車で町を離れた。汽車はある停車場に停まり、中年の紳士と痩せた紳士が乗車してきた。痩せた紳士の帽子には一匹のいなごがくっついていて……。
列車にいなごが乗ってくるというささやかな出来事に着目した作品ではあるが、そこからどんどん空想が広がっていき、不思議なスケールの大きさを感じさせる。解説で「蝗の眼を通して人間の世界を相対化した」(桑原三郎・千葉俊二編『日本児童文学名作集〈下〉』岩波書店、295頁)と説明されているように、深いテーマをはらみつつもあくまでユーモアあふれる読みやすい作品となっている。

【ある島のきつね】
ある小さな島に寺があり、白いきつねが棲みついていた。きつねはいつも仏壇の供え物を食べるのだったが、ある日もいつものように供え物のまんじゅうを食べようとした。その時、玄関に誰かがやってくる音が聞こえ、きつねが見に行くと、盲目のおばあさんが立っていて……。
浜田広介は「竜の目の涙」「泣いた赤鬼」など幼年向けの童話が多い。文章も平易で、詩情性が高く、とにかく優しい作風である。そのためかどうかはわからないが、50・60年代は批判の対象になったこともあった。それでも「泣いた赤鬼」などは現在まで読み継がれているし、2011年にはアニメ化もされている。それだけ魅力があるということだろう。
私がこの作品の魅力と感じたのは話もさることながら、絵画的な文章。

小さな島が、ありました。まっかなつばきが、さいていました。うららかな日にてらされて、花は、みな、ふくれていました。いま、さきだそうとしているつぼみもありました。青ぐろい葉は、つやつやとひかっていました。そして、青い海の上には、いくつかの帆が、銀のようにかがやいて、うごくともなく動いていました。〉(〈下〉、149頁)

色彩豊かな文章で、島の牧歌的な風景が鮮やかに目に浮かぶ。リアルであるとか臨場感があるというのではなく、あくまでメルヘンとしてその場の雰囲気、空気感をうまく描き出しているなと感じた。

【魔法】
ある日、弟の三平が庭へ駈け込むと、兄の善太が手を上げてそれを止めた。善太は今魔法を使っていると言う。三平は魔法が何のことだかわからず戸惑うが、善太は魔法を使ってみせると言い、蝶を自由に操る。それでも疑う三平に対し、善太は通りかかったお坊さんを蝶に変えてみせると豪語するが……。
子どもの無邪気な遊びをとらえた作品。現代の子どもはパソコンだゲームだと最初から既製の玩具を与えられることが多いが、この善太と三平の兄弟にはほとんど何もない。だから“魔法”という遊びを自ら作り出して、空想の力だけで楽しむ。時代を感じてしまうとともに、なんかいいなあとも感じてしまった。
どういう理由でだったかは忘れたが、坪田譲治もまた、50・60年代に批判された童話作家の一人である。どちらにしろ、子どもの既成概念にとらわれない自由な姿を描いた良作だと思う。

【牛をつないだ椿の木】
ある日、人力曳きの海蔵さんと牛曳きの利助さんが、道から一町ばかり山に入ったところにある清水に水を飲みに行き、その際利助さんは道のかたわらの椿の木に牛をつないだ。ところが牛が椿の葉をすっかり食べてしまったことで、利助さんは地主からひどく怒られてしまう。そこで海蔵さんは道ばたに清水があればと思い、井戸を掘ることを考えるが……。
新美南吉は現代でもそれなりに知名度の高い童話作家だと思うが、特に「ごんぎつね」なんかは教科書にも載っているし、結末が印象的なこともあってか有名な作品となっている。
比較すると「牛をつないだ椿の木」は雰囲気が少し違って、特に結末がその印象を決定づけているのではないかと思う。
ネタバレしてしまうと、海蔵さんは結局井戸を完成させて戦争へ行き、戦死する。「ごんぎつね」では改心したごんが栗を届けに来たところを兵十に撃たれて終わるため、どこかやるせない感じがする。が、今作では海蔵さんは死ぬ前に自分の目的を果たして、井戸という人々の役に立つものを残す。つまり社会貢献をして、他者から認められるわけである。だから、海蔵さんは亡くなりはするが、清々しい余韻となっている。(とはいえ、海蔵さんは他者貢献という以上に、自分がやりたいからやるというエゴイスティックな部分も見えて、それが一段と人間臭くて個性となっているのだが)
こういう作品は数ある南吉の童話の中でも珍しいようだが、「ごんぎつね」や「手袋を買いに」とはまた一味違った味わいでおもしろい。

ということで、6作品について好き勝手に語りました。
芥川の「蜘蛛の糸」や宮沢賢治の2作などは、あえて語るまでもなく名作と知られているので言及しなかったが、もちろんおすすめ。
挙げた6作をはじめ、それ以外も最近じゃあまり読まれないんじゃないかなというのが多いので、ぜひこの本を手に取って昔の児童文学の良さを知っていただけたらと思います。


:「笛」の説明の中で引用した小島政二郎についての文章は、ウィキペディアの小島政二郎のページから引用したものです。以下に引用リンクを明記します。

【引用リンク】
「小島政二郎」(2013年3月24日(日)12:17 UTCの版)『ウィキペディア日本語版』

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日本児童文学名作集〈下〉 (岩波文庫)
桑原 三郎 千葉 俊二
岩波書店
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by hitsujigusa | 2013-06-14 02:28 | 児童文学 | Trackback | Comments(0)

日本児童文学名作集〈上〉 (岩波文庫)


【収録作】
「イソップ物語 抄」(『童蒙教草』より)福沢諭吉
「八ッ山羊」呉文聡
「不思議の新衣裳」(『女学雑誌』「子供のはなし」欄)
「忘れ形見」若松賤子
「こがね丸」巌谷小波
「三角と四角」巌谷小波
「印度の古話」幸田露伴
「少年魯敏遜」石井研堂
「万国幽霊怪話 抄」押川春浪
「画の悲み」国木田独歩
「春坊」竹久夢二
「赤い船」小川未明
「野薔薇」小川未明
「鈴蘭」(『花物語』より)吉屋信子
「ぽっぽのお手帳」鈴木三重吉
「デイモンとピシアス」鈴木三重吉
「ちんちん小袴」小泉八雲(内藤史朗訳)


『日本児童文学名作集』は、明治以降の日本の児童文学作品が上下巻合わせて38編収められている。岩波文庫で手に取りやすいし、これひとつで近代日本児童文学史の流れがわかるので、児童文学に興味がある人にはおすすめ。

で、〈上〉の内容は上述のとおり。
明治5年(1872)から大正5年(1920)までの作品が大体発表順に並んでいる。

いくつか抜き出してご紹介。

【忘れ形見】
両親がいない「僕」は、「徳蔵おじ」と一緒にある村で暮らしている。村にはかつて城があり維新の後取り崩しになったが、今でも遊猟場や別荘があり、「徳蔵おじ」はその番をしている。かつての殿様、現在の子爵はたまに東京から村に帰ってきて、別荘で二週間ほどを過ごす。ある時も子爵は家族とともに村を訪れるが、その際奥さまを垣間見た「僕」は、その美しさ、品の好さに心を打たれて……。
原作はアデレイド・A・プロクターの詩「The Sailor Boy」で、これを物語として翻案している。
内容的には、「僕」の出生の秘密、「奥さま」の過去など、ミステリーめいた雰囲気がある作品。悪く言えばよくある話なのだが、そういった陳腐さを感じさせない情感・哀感がある。
それを作り出しているのが、「僕」の一人称で語られる口語文である。
この作品が発表されたのは明治23年(1890)。この時代の日本文学作品といえば、森鴎外の「舞姫」とか尾崎紅葉の「金色夜叉」とか樋口一葉の「たけくらべ」とか、文語体のものが主流。
その中で「忘れ形見」は少年の語りそのままという文体で綴られている。
たとえば作品はこんな語りで始まる。

あなた僕の履歴を話せって仰るの? 話しますとも、直き話せっちまいますよ。だって十四にしかならないんですから。別段大した悦も苦労もした事がないんですもの。ダガネ、モウ少し過ぎると僕は船乗になって、初めて航海に行くんです。実に楽みなんです。〉(桑原三郎・千葉俊二編『日本児童文学名作集〈上〉』岩波書店、45頁)

「僕」が誰かに自分の思い出を語るという設定で書かれていて、この時代の作品としては実に読みやすい。
少年の喜びや哀しみ、懐古の情が語り口ににじみ出ていて、話の陳腐さ云々よりもそちらの方が強く印象に残る。現代では普通にある少年の独白体小説だが、この時代において話し言葉の一人称小説を書くというのはかなり時代を先取りしたことだったのだろうと思う。

【こがね丸】
ある荘官の家に月丸と花瀬という名の夫婦の犬が飼われていた。しかし、ある因縁から月丸は近くの山に棲む虎、金眸に襲われ殺されてしまう。ちょうど身ごもっていた花瀬は子どもを産み落とした後、死んでしまう。孤児となった子どもは黄金丸と名付けられ、家の裏の牧場の牛の夫婦に育てられる。成長した黄金丸はある時両親の真実を知り、金眸に復讐するために自らを鍛えるために旅に出るが……。
「忘れ形見」から一転、見事な文語体で綴られる仇討ち物語。解説では、「『こがね丸』は、どちらかというと教訓を離れて、少年読者に面白可笑しく読んでもらえる戯作を、馬琴ばりの文体で記した作品と言ってよいだろう。」(同書、276頁)と説明されている。
たとえば黄金丸が産まれてくるシーン。

かかる折から月満ちけん、俄かに産の気萌しつつ、苦痛の中に産み落せしは、いとも麗はしき茶色毛の、雄犬ただ一匹なるが。背のあたりに金色の毛混りて、妙なる光を放つにぞ、名をばそのまま黄金丸と呼びぬ。〉(同書、67頁)

とまあ、こんな感じで続く。
現代人からしたらかなり読みにくいわけだが、しかし呼んでいるうちにその七五調が不思議なリズムを持ち始め、いつのまにか乗せられていく。
発表当時の子どもたちからの人気は相当なものだったらしい。
話としては特に珍しいものでも何でもないが、親の仇を討つという話ゆえの痛快さ、個性的な登場人物、黄金丸や友人の武士然とした佇まい、ユーモアあふれるツッコミどころなど、話の筋以外のところで楽しませてくれる。
ところでこの作品、発表から30年後に口語文で書き直されている。これはこれで良いのだが、何か物足りない。時代劇的な雰囲気が醸し出す独特の情緒、みたいなものが失われている気がする。美文調の仰々しい文章は古めかしくはあるものの、それが前時代的な物語の雰囲気にぴったり合っているのだ。というか古めかしい文章だからこそ、古色蒼然とした風情を描き出せるのかもしれない。
普段全く慣れ親しまない文語体の魅力を感じられる一作。

【赤い船】
貧しい家に生まれた露子は、小学校でオルガンの音を聞いて驚き感動する。露子が先生にオルガンはどこから来たのかと問うと、先生は外国から来たのだと答える。それから露子は大きくなったら外国へ行って音楽を習いたいと憧れるが……。
【野薔薇】
ある大きな国とその隣の小さな国は何事も起こらず平和だった。都から遠い国境には石碑が立っており、両国から一人ずつ兵士が派遣されていた。大きな国からは老人の兵士、小さな国からは青年の兵士。2人は話をしたり将棋をしたりと仲良く交流していたが……。
小川未明は現代でも比較的よく読まれる児童文学作家のうちの一人だろう。作品は抒情性にあふれ、「日本のアンデルセン」とも呼ばれる。
その一方、子ども向けではない、内面を掘り下げていない、雰囲気に頼っているといった批判もある。(もしくはあった)
たしかに未明童話はストーリーで何かを訴えようとしていない。だから情感や雰囲気が前面に出てきて、話の筋で楽しめるとか面白いとかいうのはない。解説は「そこには教訓性は影をひそめ、読者を喜ばせようという意識もない。あるものは、人生というものを自分なりに確かめようとする作家の切実な自己表現である。」(同書、281頁)としている。しかし、それによって「人間の生きる哀歓が描かれる」(同書、280頁)のだ。
普通の人間の喜び、哀しみ、怒り、さまざまな心情がじわじわ滲みるように伝わってくる。それが未明童話の魅力であり、そういう心の機微を描写できる童話作家は今も昔も稀有な存在だと思う。

【デイモンとピシアス】
二千年ほど前、ギリシャに支配されたシシリー島のシラキュースという町に、ディオニシアスという議政官がいた。ディオニシアスは持ち前の才能で出世し、町のことを一人で切り回すようになり、暴君へと化していったが……。
シラキュース、ディオニシアスという名前で気付いた人もいるかもしれないが、この作品は太宰治の「走れメロス」と同じ話である。
「走れメロス」は太宰が文末に「古伝説とシルレルの詩から」と書いていることからわかるように、元ネタがある。ギリシャ神話のエピソード、そしてドイツの詩人シラー(シルレル)の詩「人質」である(と言われている)。この「人質」はギリシャ神話の「デイモンとピシアス」をベースにしているらしい。鈴木三重吉がどの本を参考にしたのかはわからないが、「メロス」よりも前にこの神話のエピソードに目を付け、自分なりに構築し発表したわけである。
ただし、この作品、「メロス」とはだいぶ趣が違う。
まず、主人公がピシアス(「メロス」におけるメロス)ではなく、暴君ディオニシアス(「メロス」ではディオニス)である。ディオニシアスがどうやってその位置まで登りつめたのか、なぜ暴君になったのかなどディオニシアスの半生を描いたものとなっている。
「メロス」をしっかり読み込んだことがないのでうろ覚えだが、「メロス」では暴君の人となりについてあまり書かれていなかったような気がする。それと比較すると、この作品では暴君も人の子なんだなーと人間味が感じられる描き方がされている。
「デイモンとピシアス」と「走れメロス」、比べながら読むのもまた一興です。


〈上〉についてはとりあえずこんなところですが、(下)についても近いうちに書きたいと思います。


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by hitsujigusa | 2013-06-08 01:46 | 児童文学 | Trackback | Comments(0)