明治、大正、昭和を生きた文豪、室生犀星。当ブログでは私の個人的な犀星好きのため、『室生犀星集 童子』についての記事を書いたり、夜に読みたい小説・私的10撰幽霊を描いた小説・私的10撰という記事の中でも犀星を取り上げたりしてきたのですが、8月1日が犀星の誕生日ということで、それに合わせて改めて犀星の作品を取り上げたいと思います。

 室生犀星の名前は知っているけど詳しくはよく知らない人、室生犀星の名前も知らない人もいらっしゃると思いますので、ざっくりと犀星について説明しますと、生まれは明治22年(1889年)石川県の金沢市生まれ。父は加賀藩の足軽頭を務めた小畠弥左衛門吉種、母は小畠家の女中ハルでしたが、私生児であったためすぐに親から離され、真言宗寺院・雨宝院の住職、室生真乗の内縁の妻、赤井ハツにもらわれ、照道と名付けられます。その後7歳の時に正式に室生家の養子となるものの、家は貧しく、高等小学校を中退。13歳で金沢地方裁判所の給仕として働き始めると、俳人でもある上司から俳句を学び、その後詩や小文にも幅を広げ新聞や雑誌にたびたび投書、ほぼ独学で腕を磨くと、明治43年(1910年)上京。『朱樂』や『スバル』といった文芸誌に寄稿、北原白秋や萩原朔太郎ら文学者たちとも親交を深め、徐々に詩人として認められていき、大正1年(1918年)1月、初の詩集『愛の詩集』を出版。同年9月には犀星の名を一躍知らしめた代表作『抒情小曲集』を出版すると、その後も続々と詩集を発表、そして小説にも活躍の場を広げ、詩人・小説家として地位を確かなものにします。戦後は小説家として活動を活発化させ、新聞連載したのち昭和32年(1957年)に単行本化した自伝的小説『杏っ子』は読売文学賞を受賞、さらに名声を高め、昭和37年(1962年)3月26日に73歳で亡くなるまで意欲的に執筆、詩作を続けました。
 ざっくりとは言いつつも、一人の人の人生をまとめるとなるとやはりちょっと長くなってしまいましたが、これだけ見てもなかなか波乱万丈な人生を歩んだ人だということがお分かりいただけるのではないかなと思います。そして、生まれながらにして暗い宿命を背負った犀星の作品たちはその暗さに加え、孤独ゆえのあらゆるものに対する惜しみない愛を湛えています。

 今回取り上げるのはそんな犀星の詩を187編収めた新潮文庫の『室生犀星詩集』です。
 『室生犀星詩集』は犀星が生前に発表したさまざまな詩集の中から編者である小説家・フランス文学者の福永武彦氏が独自に187編を選んで再編集した詩集となっています。犀星の詩集は複数の出版社から出版されていますが、この新潮文庫版が最もバランス良く、量も十分で、初期から晩年までをカバーしているのではないかと思います。また、編者の福永氏の解説も犀星詩の特長、魅力を丁寧に伝えていて、読みごたえがあります。


 犀星詩の分りにくさ、美しさは、彼の持って生れた土着的なものとも深い関係がある。彼の故郷である金沢の風土は、彼の詩の中に常に顔を出しているし、田舎者の頑固さは、晩年に至るまでこの人を都会人たらしめなかった。二十歳の抒情をかたくなに守り通した。と同時に、彼の人道主義、魂から迸り出る愛を、終世持ち続けた。この愛は貧しい虐げられた人たちに向けられ、女人に向けられ、妻や子に向けられ、友人たちに向けられ、遂には「どんな最微な生きもの」に対しても向けられた。それも上品な愛とは限らない。もっとなまぐさい性質のものである。(室生犀星著、福永武彦編『室生犀星詩集』新潮社、1968年5月、256頁)


 福永氏が解説するように、犀星の詩はさまざまなものに対する愛情に満ちています。特に魚や虫や鳥など、小さな生き物に対して、また、人間の中でも子どもや女性など立場の弱い者に対してより温かいまなざしを注いでいます。


   夏の朝

 なにといふ虫かしらねど
 時計の玻璃のつめたきに這ひのぼり
 つうつうと啼く
 ものいへぬむしけらものの悲しさに


   秋くらげ

 山には遠い海岸に
 くらげはまつさをに群れてゐた
 くらげは心から光つてゐた
 あるものは岸辺に打ちあげられ
 松並木はこうこうと鳴つてゐた
 くらげにはくらげの可愛さがあつた
 私はそれをつくづく眺めてゐた
 山はみな高く海べに映つて
 ときをり雪もふつてゐた
 くらげは眺めて居れば居るほど
 あはれな いき甲斐のないもののやうな気がした


   いつも釣をしてゐる子供

 川べりの石の上に跼んで
 いつも釣をしてゐる子供がゐる
 小さい魚籠には雑魚が二つ三つゐるばかり
 雨がふると木の下へかくれ
 晴れるとまた釣をしてゐる。
 
 雑魚は糸を外れたり余処へ泳いで行つたり
 子供はそのたびに淋しい顔をして
 空のうつる水の上を凝視めてゐる
 何処の子だか知らない
 よごれた着ものをつけ
 寒い水洟をしめらせ
 ゆがんだ顔つきになる水面を眺めてゐる。

 いつも釣をしてゐる子供よ
 もう日の暮れ近いのに
 なぜに君は糸を巻いて帰らぬか、
 水の上はどろりとした蒼みをふくみ
 さざなみ一つ立たぬ静かな中に
 子供はひとり残されて
 好きな釣糸をうごかしてゐる。


   みみずあはれ

 けふ はじめて
 みみずといふ生きものが
 めくらであることを知つた。
 この悲しい一つの出来ごとを知り、
 みみずを粗末にしてゐた僕自身を
 恥ぢるやうな思ひであつた。
 庭では
 何処にも彼の姿が見られた。
 めくらはめくららしい方向にむかひ
 生きて行かねばならず、
 また這うて何処かに行かねばならず、
 彼を見ることが苦痛になつた。



 上述したように犀星は複雑な生い立ちを背負い、実の父母を知らず、養父母とも決して一般的な温かな家族関係を築いたとは言えず、そこで屈折して歪んで後ろ向きな人生を歩んでしまってもおかしくないですが、逆にとことん愛を追求する方向へ向かっていったのがおもしろいですね。とはいえ完全には明るさや前向きさを得るには至らず、やはり常に闇を漂わせていて、その組み合わせ、ギャップが犀星詩の最大の魅力と言えると思います。
 そして、福永氏も指摘しているように、田舎者の犀星は東京に出てからも都会の色に染まりきるということはなく、良い意味で洗練されない素朴さを携え続けました。たとえば犀星と親しく交友を持った北原白秋や萩原朔太郎などと比べてもものすごい新しさや技巧があるわけではない。むしろ極めてシンプルな語り口で、時につたなささえ感じるような、まるで子どもが書いたかのような純朴さがあります。それは犀星が独学で詩を習得したからこその簡素さなのでしょうが、どれだけ巨匠になってもそういった素朴さ、普通さというのを残しているところに犀星の凄さの一つがあるなと思います。
 さらに、その素朴さを支えているのが犀星独自の視点です。犀星は小さきもの、弱きものに対する詩を多く書いていますが、それは生きものを保護しようとか可愛がろうといった人間目線というよりも、自分もそれらの生きものたちと同じである、小さきものの一部であるというかのような共感に満ちています。


   月夜

 秋もふかくなると
 虫もぼろぼろになり
 ひげも長い脛もない
 足の吸盤もすりきれてしまふ、
 つばさはすぢばかりになり
 ひろげたらすぼがらない、
 すぼめることが出来ない、
 それでもゆうべもをとつひも
 たそがれてくれば鳴かぬわけにゆかない、
 半分ひろがつたつばさをかついで
 どうやらかうやら鳴いてゐる
 お腹の向う側からお日さまが見え、
 月夜に月が見え
 やつれた草むらの骨に風が鳴る。



 虫に対してさえ偉ぶったところがなく、虫の側に立ち、寄り添い、同じ景色を眺めているかのようです。そうした卑下にも近い謙虚さは犀星自身の生い立ちのコンプレックスによるところが大きいわけですが、だからこそ他者に対して惜しみない愛情を注げるのでしょうし、また、表面的に取り繕った愛ではない、哀しみに裏打ちされた心からの愛が詩にも表れているのだと思います。

 今回記事の中で紹介した詩は生きものを描写したものをメインに選びましたが、そのほかにも犀星は幅広くいろんな物事を題材にしています。ただ、どの詩にも一貫して悲哀の気配、そして愛が溢れていて、こんなにも人となりが漂ってくる詩人もそうそういないんじゃないかと思うくらい、犀星という人間が投影されています。劣等感や哀しみを出発点にしている犀星が残した詩だからこそ、読む人の心にじんわりと沁みて、そっと手を差し伸べてくれるような助けになるのではないかなと思います。


:記事内の詩は全て、室生犀星著、福永武彦編『室生犀星詩集』(新潮社、1968年5月)から引用させていただきました。

【ブログ内関連記事】
室生犀星『室生犀星集 童子』―生と死の生々しさ 2013年5月30日
夜に読みたい小説・私的10撰 2014年9月16日  記事内で室生犀星『室生犀星集 童子』を取り上げています。
室生犀星『蜜のあわれ』―いのちへの讃歌 2017年3月2日



[PR]
by hitsujigusa | 2015-07-31 01:51 | エッセイ・評論・その他 | Trackback | Comments(0)

ターシャの庭


 アメリカを代表する絵本画家でありガーデナーでもあるターシャ・テューダーさん。数々の絵本を手掛け、晩年はそのライフスタイルや人生も注目を浴びました。そんなターシャさんが92歳で生涯を終えたのが2008年の6月18日。その命日に合わせて、今回はターシャさんの著書『ターシャの庭』を取り上げたいと思います。

 ターシャさんの家・庭はバーモント州の田舎にあり、ターシャさん自身は我が家とその庭を“コーギ・コテージ”と呼び、そのなかで19世紀のアメリカのライフスタイルを貫きました。本書では庭を中心に、ターシャさんの生活の一端をターシャさんの文章、リチャード・W・ブラウンさんの写真とともに垣間見ることができます。
 本は“コーギ・コテージ”のエリアごとに構成され、ターシャさんが描いた庭の地図とともに見ることでどんな配置・デザインになっているのか想像を巡らせながら楽しめます。
 ターシャさんの庭の魅力は、第一に植物が自然なかたちで植わっているように見えるコテージガーデンだということ。写真の数々を見ると、まるで植物が自分たちで勝手に場所を選んで生えてきたんじゃないかと思うくらい、無造作にナチュラルに花を咲かせています。

c0309082_13341029.jpg

c0309082_13343856.jpg

c0309082_13344774.jpg


 もちろん実際にそんなことはなく、より美しい庭のかたちを考えた上で植えられているのでしょうが、人工的なにおいを感じさせない自然さがターシャさんの庭にはあります。それでいて雑然としすぎず、適度に人の手が入った風情があり、そのバランスが絶妙です。
 
 そして、ターシャさんの庭のもうひとつの魅力は単に花を眺めて楽しむだけの庭ではないということ。たとえばこちらの写真。

c0309082_15442793.jpg


 このクラブアップルはバラ科の木。日本ではあまり馴染みがありませんが、「実をつけたまま冬を越すので、餌がなくなる冬の間、鳥や野生動物の貴重な食糧源になります。」(ターシャ・テューダー『ターシャの庭』メディアファクトリー、2005年6月、21頁)とターシャさんは説明しています。観賞用としても絵になっていてきれいだなと思いますが、野生の動物たちにとっては命を繋ぐ大切な存在なのですね。
 ほかにもターシャさん自身が使う用の西洋梨やりんご、ブルーベリーなどのフルーツ、庭の一画にある畑で育てられたキャベツやじゃがいも、ルバーブなど、庭で育まれている“命”の姿が本書には多数収められています。
 そして何よりも命を感じさせるのが、四季折々の庭の移り変わり。

c0309082_15475439.jpg

c0309082_15523987.jpg

c0309082_1555419.jpg

c0309082_15555945.jpg


 花々が一斉に咲き誇る春、緑豊かな夏、実りの秋、春のために眠り準備を整える冬。そうした季節の表情はただただ美しいと見惚れるとともに、“生命”の力強さ、輝きをひしひしと感じさせてくれます。巡り巡ってゆっくり着実に命を生み、育む自然。ターシャさんの庭、コーギ・コテージはそんな自然の神秘を見せてくれる、生命の庭だとこの本を眺めてふと思いました。

 庭・ガーデニングに興味のある方もない方も、ぜひ一度手に取ってみてほしい良書です。


:記事内の写真は全て、ターシャ・テューダー著『ターシャの庭』(メディアファクトリー、2005年6月)から引用させていただきました。


【ブログ内関連記事】
『庭の小道から―英国流ガーデニングのエッセンス』―イギリスの匂い 2013年7月17日


ターシャの庭
ターシャの庭
posted with amazlet at 14.06.16
ターシャ テューダー
メディアファクトリー
売り上げランキング: 34,916

[PR]
by hitsujigusa | 2014-06-16 16:16 | エッセイ・評論・その他 | Trackback | Comments(0)

遠い太鼓 (講談社文庫)



 10月19日は海外旅行の日、だそうです。(遠(10)くへ行く(19)の語呂合わせ。)ということで、それに合わせて旅に出たくなる本(海外編)を取り上げます。今回は10冊これというのがなかったので、8撰としました。また、小説、絵本などは除き、紀行エッセイ、写真集が中心となっています。


 トップバッターは紀行文学の代表ともいえるこちら。

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

 沢木耕太郎さんの『深夜特急』、文庫だと全6巻+追加エッセイですね。主人公“私”が、香港、タイ、シンガポール、インド、中東、東欧、ヨーロッパというように、東から西へバスや鉄道のみで旅する姿を描いています。小説に近い作品ですが、沢木さんの実体験に基づいているので紀行エッセイとも言えますね。
 とにもかくにもおもしろいの一言。バックパッカーの主人公がいろんな人々と出会い、その土地の文化、習俗に触れるさまは臨場感にあふれていて、本当に旅しているような気分になります。単なる楽しい旅行、観光ではなく、安ホテルで夜を明かし、現地の人々に溶け込むような旅なので、なかなか真似できるものではありません。それでも主人公のように心のおもむくままに旅してみたいと思わせられますし、旅の本質が書かれている本だと思います。


 こちらも日本の作者の紀行エッセイとしては定番ですね。

遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)

 村上春樹さんの『遠い太鼓』は、村上さんがヨーロッパに長期滞在していた1986年から1989年までの出来事を綴ったエッセイです。なので紀行文、旅行記というより、村上さん独特の眼で滞在した国々、地域の素顔をとらえた日記的なエッセイですね。
 舞台となっているのは主にギリシャ、イタリアですが、その風景や現地の人々の空気感が伝わってくる文章で、のどかな気持ちになります。ギリシャやイタリアというと最近では金融危機のことがよく言われますが、この本を読んでいると何となくその理由がわかる気がします。ギリシャ人、イタリア人特有の大雑把さ、のんびりさ、そういうものがよく分かるんですが、それでもなんだか憎めない温かさみたいなものも感じられて、淡々としながらも心から楽しんで書いている村上さんの文章の魔法かなと感じます。


 こちらもエッセイの名手。

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

春になったら苺を摘みに (新潮文庫)

 梨木香歩さんの『春になったら莓を摘みに』。イギリスに留学した“私”=梨木さんと下宿の女主人ウェスト夫人との交流、そこから生まれるさまざまなエピソードを記したエッセイ。こちらも『遠い太鼓』同様、紀行ではなく日記ですね。
 イギリスの風情、情緒満載のエッセイなんですが、それ以上におもしろいのはウェスト夫人の人柄でしょうか。博愛精神に満ちあふれていて、それによってトラブルも引き寄せてしまう、それでも徹底的に自分を貫くウェスト夫人。その姿に梨木さんは振り回されたり困惑したりしつつも、引き付けられていきます。下宿には多種多様な民族の下宿人たちがいて、当然そこには相容れない考え、価値観があるわけですが、“理解はできないが、受け容れる”というウェスト夫人のモットーの元に、それぞれが親交を深め、関係を形作っていきます。そういった人と人との繋がりについて考えさせられる本なのですが、もちろん、イギリスの雰囲気を味わいたい人にもおすすめの一冊です。また、梨木さんはほかにも、『渡りの足跡』『エストニア紀行』など、旅情緒を掻き立てられるエッセイを書いていて、そちらも素晴らしいです。


居ごこちのよい旅

居ごこちのよい旅

 『暮しの手帖』の編集長として知られる松浦弥太郎さんの『居ごこちのよい旅』。サンフランシスコのノースビーチ、ハワイのヒロ、バンクーバー、台北など、12の町に滞在した松浦さんが出会った街並み、店、食べ物、人々について、写真家若木信吾さんの写真とともに綴った旅エッセイです。
 本に出てくるのは観光地や有名スポットなどではなく、非常にローカルな店や景色。自分の足で歩き、自分の目で見、自分の肌で感じることでしか書けない、その町の生々しい日常が記されています。また、写真は美しいのはもちろん、ノスタルジックな雰囲気を醸し出していて、松浦さんの文章と合わせ、現代では少なくなった古き良き町の空気が伝わってくる本となっています。


 次はパリの本2冊。


クウネルの旅 パリのすみっこ

クウネルの旅 パリのすみっこ

 雑誌『クウネル』の編集者鈴木るみ子さんの『パリのすみっこ』。これは『クウネル』に掲載されたパリ関係の記事を1冊にまとめたもの。タイトルにある“すみっこ”のとおり、ガイドブックによく載っているような華やかできれいな“メイン”のパリとは違う、“すみっこ”のような地味で平凡なパリが登場します。
 とはいえ、どんな日常の風景もおしゃれに見えてしまうのがパリ。内容は多種に富んでいて、お菓子屋さん、パステル屋さん、ポトフづくり名人のおばあちゃんなど、いろんなお店や人の素顔が、お話仕立てのエピソードや美しい写真とともに紹介されています。きらびやかではないけれど、それでもやっぱり可愛らしくて素敵なパリが詰まっていて、日常のパリが知りたいという人にはもってこいの本です。


パリのおさんぽ

パリのおさんぽ

 日常のパリの風景をパノラマ写真のようにとらえた『パリのおさんぽ』。いろんなアベニューの風景を見開きで横に長く掲載していて、まさに“おさんぽ”するような感覚になれる写真集です。写真集といっても、そのアベニュー沿いにあるお店の情報なんかもちょこちょこ載っているので、実用書ではありませんがガイドブック的にも使えるかもしれません。とにかくかわいいパリ、おしゃれなパリの写真をいっぱい眺めたいという人におすすめ。ページをめくるごとにいろんなアベニューが登場して、パリにいるような気分になれる本です。続編として『パリのおさんぽ2』、姉妹本として『ローマのおさんぽ』もあり、こちらもおすすめ。


 最後に、人物にフィーチャーした写真集2冊です。


Santa Fe 宮沢りえ

Santa Fe 宮沢りえ

 言わずと知れた篠山紀信さん撮影、宮沢りえさんモデルのヌード写真集『Santa Fe(サンタフェ)』。旅行記でもなければ場所に焦点を当てた写真集でもないのですけれど、サンタフェという土地の風景を撮った写真集としても素晴らしいので挙げました。
 宮沢りえさんのことについて言及しますと、セクシーとか色っぽいとかいうのは全くなくて、ただただ神々しくさえ感じられる美しさが印象に残りますね。私は女ですが、同性から見ても彫刻のようなりえさんの身体はうっとりしますし、人間というものの美しさを教えてくれる本なんじゃないかと思います。
 そんなりえさんの裸身とサンタフェの景色、豊かな自然がコラボレーションすることによって、お互いの魅力がさらに高まっている気がしますね。青々とした野原や赤茶けた岩剥き出しの山、突き抜けるような青空が美しく、この本が単なるヌード写真集に終わっていないのはこういうところに理由があるのだなと改めて感じました。


アムール 翠れん―ホンマタカシ写真集

アムール 翠れん―ホンマタカシ写真集

 こちらは東野翠れんさんモデル、ホンマタカシさん撮影の写真集『アムール翠れん』。ロシアの各地をモデルの東野さんが巡り、その風景をホンマさんが淡く美しい写真に収めています。
 この写真集は『Santa Fe』とは違って、モデルメインというよりは風景メイン。ロシアというと極寒の風景なんかが思い浮かびますが、ここに登場するのは夏のロシア。良い意味でロシアっぽくない、明るさが印象的な写真集となっています。また、東野翠れんさんは父親が日本人、母親がイスラエル人のハーフなのですが、その異国情緒あふれる顔立ちがロシアの風景と不思議に溶け合っていて、地元の人のような馴染み具合が良い味を出していますね。巻末には東野さんの短い日記(直筆)も付いていて、写真集ではあるんですけど、旅行記的な色合いもある本です。


 以上が、旅に出たくなる本の私的8撰です。とりあえず今思い付くのが8冊だったので8撰にしましたが、ほかにもあれば追記して10撰になるかもしれません。気が向けば、なので約束はできませんが……。
 旅気分に浸りたいなあと思う際は、ぜひこれらの本をおすすめいたします。


【ブログ内関連記事】
冒険を描いた小説・私的10撰 2015年8月29日  沢木耕太郎『深夜特急』を記事内で取り上げています。
[PR]
by hitsujigusa | 2013-10-18 01:37 | エッセイ・評論・その他 | Trackback | Comments(0)

ともだちは実はひとりだけなんです (Billiken books)



平岡あみさんは1994年生まれの詩人・歌人だ。お母様も詩人で、その影響もあってか子どもの頃から詩を書き始めた。『詩とメルヘン』『MOE』といった雑誌、産経新聞に投稿、掲載されるようになった。

私は『詩とメルヘン』や『MOE』で彼女の詩を見ていたので、この歌集のことを知った時、昔懐かしい人に久しぶりに再会したような気持ちになった。
子どもの頃(小学校低学年くらい)の彼女の詩は、子どもらしさがありつつも子ども離れした冷静な目もあって、すでに完成されているという印象を受けた。たとえば、「こもちししゃも」という詩。


おさかなは
だいすきだけど

こもちししゃもは
たべられません

おかあさんとこども
いっぺんになんて


(『詩とメルヘン』2002年8月号)


『詩とメルヘン』の編集人であるやなせたかしさんは、「唇に真珠を含んだ天性の詩人である」(同誌、2002年8月号)と評した。
それから10年近く経って、少し大人になった彼女の作品を見て、また驚いた。
題材にするもの、作風に変化はあれども、身近な物事をとらえるその目は10代の女の子らしさもあり大人の女性のようなクールさもあり、子どもの頃と変わらない。それどころか想像以上の進化を遂げている。

歌集は、父のこと、母のこと、恋愛のこと、自分自身のこと、と内容ごとに章立てされ、さらに詠んだ年齢順に並べられている。なので彼女の成長、それに伴う心の変化も読み取れておもしろい。
でも一貫して変わらないのは、やはりクールさ、だろうか。と言っても冷たい感じではなく、ぬくもりが伝わってくる。言い換えれば、スパイシーな感じ。


捨てられた妻と捨てられた娘が父親のことでまたけんかする

父と母セットで語ることなどは不可能我が家は複雑なので

家中が母の想いでいっぱいに二段ベッドの上に避難する

暗い部屋で本を読んでる母がいる目が悪くなるよ介護はわたし

彼氏という男が欲しいのとちがうすきっていうその気持ちがいいんだ

雪なのに彼が送ってくれました雪だからとも言い換えられます

垣根あれば乗り越えたくなるものでわたしだってあの薔薇だって

あとどれくらい子供でいられるのかお風呂上りに裸でおもう

寝不足で二重になっただけなのに先生からは整形疑惑

渋谷には誰かいるから出かけますその空気に触れるだけでいい


(平岡あみ・短歌『ともだちは実はひとりだけなんです』ビリケン出版、2011年9月)


奇をてらった歌ではないし、特別新しいことを題材にしているわけでもないが、はっとさせられる。それは、当たり前すぎて気づかないことを描いているからだと思う。
暗い部屋で本を読む母親を見たり、風呂上りに自分の体を眺めたり。日常の中で取り立ててじっくり考えたり見つめたりするほどのものでもないささやかな出来事が、短歌になることによって色を変え、姿を変える。
声高に何かを言うわけじゃない。でもピリリッと刺激がやって来て、ピリピリとした後味を残す。

そんな短歌の魅力をさらに引き立てるのが宇野亜喜良さんの絵。
読み進めていくうちに、大人っぽいまなざしの少女の絵が、平岡あみという少女そのものではないかと思えてくる。彼女の詩世界を体現するような絵だ。

このお二人が初めてコラボした詩集、『ami〈アミ〉』もまた、おすすめ。


ともだちは実はひとりだけなんです (Billiken books)
平岡 あみ
ビリケン出版
売り上げランキング: 395,085


ami(アミ) (Billiken books)
ami(アミ) (Billiken books)
posted with amazlet at 13.08.21
平岡 あみ
ビリケン出版
売り上げランキング: 688,879

[PR]
by hitsujigusa | 2013-08-22 01:01 | エッセイ・評論・その他 | Trackback | Comments(0)

アンネ・フランクの記憶 (角川文庫)


『アンネ・フランクの記憶』は、作家小川洋子さんがアンネ・フランクの足跡をたどった旅について綴るエッセイである。
小川さんは中学一年の時『アンネの日記』と出会った。そして、小川さんの言葉を借りれば、「一つの純粋な文学として読んだ」のだそうだ。また、「まるで親友の心の内側に触れるような思いで全部を読み通した」とも。
こういう読み方で『アンネの日記』と出会う人はそう多くないだろう。この本の解説で、『アンネの日記』の翻訳者である深町眞理子さんはこう述べている。「いってみればごくナイーブに、単純に、反戦を、人種差別反対を訴える教科書として、手にとり、あるいは読むことを奨励する傾向が強いのだ。つまり、小川さんの場合とは反対に、最初から“良書”としてしごくまじめに、教条的に読まれる本、それが悲しいかな、日本における『アンネの日記』なのである
しかし小川さんは、一人の少女が自らの心の内をありのままに記した文学として受け止めた。ホロコースト被害者の象徴としてのアンネではなく、一人の女の子アンネとして。
そのうち小川さんはアンネの真似をして日記を書くようになり、書くことの喜びを見出し、そして作家になった。
そんな小川さんだからこそ、この『アンネ・フランクの記憶』も、ナチスを、ホロコーストを、戦争を糾弾するようなものにはなっていない。あくまで、アンネ・フランクというひとりの人間に迫ったドキュメンタリーだ。その先に、ひとりの人間が殺されるということの悲しみや理不尽さがある。

小川さんは、アンネが住んだ隠れ家、アンネが通った学校、フランク一家が住んだ家など、アンネの足跡をたどり旅をする。
そのなかで私がいちばん印象に残ったのは、アウシュヴィッツ強制収容所での一場面だ。小川さんはアウシュヴィッツに足を踏み入れた時の気持ちをこう綴っている。

 きれいだ……。これが正直なわたしの第一印象だった。この場所に最も不釣り合いであるはずの印象を持ってしまったことに、わたしは自分自身矛盾を感じ、混乱した。虐殺の世紀を象徴するアウシュヴィッツを、きれいだなどと形容すべきではない。そんなこと許されるはずがない、と自分に言い聞かせようとした。
 しかし、濃い緑と乾いた風と十分な光の中を延々と続く、この人工的な規則性が、ある種の美しさを漂わせているのは間違いない。もちろんそれは、人間の残忍さと無数の死を背中合わせに持った、“醜い美しさ”ではある。醜さがどんどん増大してゆき、極限まで到達したその一瞬、美しさに転換したような、幻覚の不気味さが漂っているのだ。


私はアウシュヴィッツに行ったことがなく、写真で見たことしかないので想像するしかないが、それでもなんとなくわかるような気はする。規則的なものが持つ特有の美。しかし、アウシュヴィッツという人間の残酷さを象徴するものに対し、そういう感想を持ってしまった小川さんの気持ちを考えると、なんともやりきれなさを感じた。小川さんが感じたこの“矛盾”が私の心にも、もやもやしたものを残した。

そんな時、ある映画が、このもやもやと共通するものを描いていることを知った。
宮崎駿監督の新作、『風立ちぬ』である。
この映画は零式艦上戦闘機、いわゆる零戦を設計した技術者堀越二郎をモデルにした人物が主人公となっている。映画の中で主人公は、なによりも美しい飛行機をつくることを夢見る。しかしその時代に飛行機をつくるということは戦闘機をつくるということであり、美しい飛行機は優れた戦闘機として活躍する。
収容所であれ、戦闘機であれ、私たちの身の回りにある服や日常品であれ、性能の良さを極めると自然と美しくなるものなのかもしれない。そういった意味で、アウシュヴィッツも零戦も高性能の極みだったのだろう。たとえそれが戦争の道具だったとしても。

『風立ちぬ』を制作するきっかけについて、プロデューサーの鈴木敏夫さんはこう記している。

 宮崎駿は一九四一(昭和十六)年生まれ。子どものころは戦争中。だから、宮さんの言葉を借りれば、物心ついた時に絵を描くとなると、戦闘機ばかり。でも、一方では大人になって反戦デモにも参加する。相矛盾ですよね。
 もしかしたら、それは彼だけの問題じゃなく、日本人全体が、どこかでそういう矛盾を抱えているんじゃないか。まんが雑誌とかで、戦争に関するものをいっぱい知ってるわけですよ。戦闘機はどうした、軍艦がどうした、とか。でも思想的には、戦争は良くないと思っている。
 その矛盾に対する自分の答えを、宮崎駿はそろそろ出すべきなんじゃないか。僕はそう思った。年も年だし。これはやっておくべきじゃないか、と。


小川さんが感じたアウシュヴィッツでの“矛盾”、宮崎監督が抱えている戦争への嫌悪と兵器への愛着という“矛盾”。違うものではあるけれど、私には共通するものが感じられた。
嫌悪すべきもの=収容所・兵器に美しさを見出してしまう矛盾。
こういう矛盾は二人だけのことではなく、鈴木プロデューサーが言っているように、誰しもが抱えるものなのだろう。かくいう私も、戦闘機を見てかっこいいと思うことがあるし、銃や日本刀のマニアもいる。
『アンネ・フランクの記憶』そして『風立ちぬ』は、私自身が向き合わなければならない現実を改めて教えてくれた。


:記事内の文字が青い部分は、小川洋子著『アンネ・フランクの記憶』(角川書店、1998年11月)から、また、文字が緑の部分は2013年5月3日付北陸中日新聞朝刊からの引用です。


【ブログ内関連記事】
小川洋子『妊娠カレンダー』―感覚で味わう“雨” 2013年6月29日
小川洋子『博士の愛した数式』―フィクションと現実の邂逅 2014年3月14日
家族を描いた小説・私的10撰 2014年6月5日  記事内で小川洋子氏の『ミーナの行進』を取り上げています。
『それでも三月は、また』―2011年の記憶 2016年3月9日  記事内で取り上げている短編集に小川洋子氏の「夜泣き帽子」が収録されています。
小川洋子『凍りついた香り』―“死”を巡る心の軌跡 2016年9月30日


アンネ・フランクの記憶 (角川文庫)
小川 洋子
角川書店
売り上げランキング: 154,186


風立ちぬ [DVD]
風立ちぬ [DVD]
posted with amazlet at 14.08.08
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社 (2014-06-18)
売り上げランキング: 40

[PR]
by hitsujigusa | 2013-07-25 23:30 | エッセイ・評論・その他 | Trackback | Comments(0)

ひらがな暦 三六六日の絵ことば歳時記


【歳時記】
①中国や日本で,一年中の行事やおりおりの風物などを,四季もしくは月順に列挙し解説を加えた書。「荊楚歳時記」「日本歳時記」など。
②俳諧で,季語を分類して解説や例句を示した書。俳諧歳時記。俳句歳時記。季寄せ。
(エキサイト辞書より)

この本はそんな歳時記を、おーなり由子さん風に綴ったもの。1日1ページ、季節の事柄や行事、食べ物などについて、数行の文章と素朴な挿し絵とともに記している。

たとえば7月21日はこう。

七月二十一日 夏やすみ

 夏休みのはじまりは、いつもうれしかった。
 時間がたっぷりあって、こわいぐらいで。
 ほんとうの夏がはじまったようで、うれしかった。
 そうして、七月はゆっくり時間が過ぎるのに、八月はあっという間。
 あれは、どうしてだったんだろう。
 夏休みのはじまりの日――。学校は、もうとっくに卒業してしまったけれど、夏の時間がたっぷりあることを思い出させてくれるから、今でもこの日は、わたしにとって特別な日。
(おーなり由子『ひらがな暦 三六六日の絵ことば歳時記』新潮社、2006年11月、235頁)

ほかにも……

三月二十七日 赤い桜並木

 ふくらみはじめた桜のつぼみは、かたい赤色で
 桜は咲く前から、うっすらとお化粧をはじめる。
 なんだか思春期の女の子の、つんと、とんがらせた唇みたい。
 そっけなく空見て。さびしそうで、ねむそうで。
 遠くから見ると、ぽやぽやとけむるような、赤。
 曇り空の下、つぼみの赤い桜並木。
(同書、109頁)


五月二十三日 キスの日

 グレープフルーツ色の月が でている夜。
 あまいかおりが 空じゅうにふくらんでいる。
 あまったるい夜が ぽたりぽたりと 街にふりそそぐ。
 ぽたり ぽたり ぽたり ぽたり
 街が、夜が、あまく あまく なっていく。
 恋人たちの キスのじかん。
(同書、171頁)


十一月七日 立冬

 「ふゆ」という言葉は、声に出して言う時、くちびるがふれあわないところが好き。
 「ふ、ゆ、」と、さむそうに、ちいさくつぶやいた言葉みたいで。
 「ふゆぅ」と、つめたい風がふいたみたいで。
 やわらかくて、空気がしんとする音。

 立冬。
 冬のはじまりです。今日から、立春の前日までが冬。
 日だまりにも冬の気配。北の国からは初雪の知らせ。
 大陸から、冬の渡り鳥たちもやってくる頃。
(同書、355頁)


お花見とか、梅雨とか、クリスマスとか、いかにも季節を感じる事柄だけじゃなくて、日々の暮らしの中にあるなにげない“季節”が、この本にはたくさん詰まっている。道端に咲く花だったり、こないだまでは見なかった虫だったり、空の色だったり、どんな日常のささいなもののなかにも季節は確かに息づいているのだということを、時には茶目っ気たっぷりに、時には詩情的に、おーなりさんは教えてくれる。

おーなりさんはあとがきでこう語っている。

 心が暗くなるようなニュースに、自分の生きている場所が、とても、いいものだとは思えない時、自分自身にも嫌気がさしてしまう時――。季節の変わり目の大風や、いつも通る道の植物に、わたしは何度も救われました。たくさん笑ったり喜んだりするために、この世界に生まれてきたのだと思いたいから、かなしみに敏感になりすぎないように、と、思う。そして、幸福に鈍感にならないように、と、心する――。(同書、414頁)

私自身、おーなりさん同様に感じることは日常茶飯事で、現実逃避したくなることも多々あるが、なんでもないことに救われることも少なからずある。この本は、そんな日常の幸福を発見するための手助けとなってくれる。
日々の生活に疲れている人にこそ、手に取ってほしい、そんな本です。


ひらがな暦 三六六日の絵ことば歳時記
おーなり 由子
新潮社
売り上げランキング: 24,207

[PR]
by hitsujigusa | 2013-07-21 00:57 | エッセイ・評論・その他 | Trackback | Comments(0)

考える人 2013年 02月号 [雑誌]


※2014年6月14日、この記事で取り上げた佐倉統さんの評論「少数意見の常駐」が収録された著書『「便利」は人を不幸にする』のリンクを追加しました。

同じネタばかりで申し訳ないのですが、再び金沢の中央公園問題について。

【ブログ内関連記事】
続き:『花岡ちゃんの夏休み』―中央公園の思い出


5月20日、公園の樹木の伐採が始まり、反対する市民と県・作業員とのあいだで衝突が起こりました。

◇◇◇◇◇

中央公園 伐採始まる 整備事業 市民抗議の中  「手続きに問題ない」県側強調

 金沢市広坂の中央公園整備事業で石川県は二十日、計画通りに樹木の伐採を始めた。ただ、反対する市民らが工事用フェンスを越えて立ち入り禁止区域に入り、作業が中断する場面も。県は一本を切り倒したが、市民の抗議が続いたため同日の伐採を取りやめた。県側は「計画を変更する予定はない」としており、約二週間で計四十五本を切り倒す方針。(街づくり問題取材班)
 公園では朝から工事用車両が伐採する樹木の周辺に配置されるなど、準備が進められた。
 一方、計画に反対する市民団体「中央公園の緑を守る会」は抗議活動を展開。午前九時すぎ、伐採のため、チェーンソーのエンジンがかけられると、見守っていた市民がフェンスを押しのけて樹木に駆け寄り、その後も次々と入り込んだ。
 フェンス内で市民と作業員とが大声で言い争い、もみ合う事態に。警察官が仲裁に入り、午後からは県の担当者が説明に現場を訪れた。計画の変更はないとする従来の方針を市民側に伝えている最中に、チェーンソーで伐採を開始。高さ八メートルのシイノキ一本を切り倒した。ただ、県側は、市民との衝突が続くことは危険と判断。午後四時すぎ、作業を打ち切った。

45本伐採 議会に諮らず  「議員はいちいち聞かない」  情報公開の姿勢疑問

 中央公園の樹木45本を伐採する方針は、石川県の審議会、有識者会議などに諮られることもなく、県議会にも明示されていなかった。しかし県は手続きに問題はないと強調している。手続きの正当性や情報公開を巡る認識は、市民と県とで、かけ離れている。
 「計画を知らなかった人が多い。情報公開が不十分」。二十日、県庁を訪れた市民団体が鈴木研司土木部長に、こう迫る場面があった。しかし、鈴木部長は「手続きに問題はなく、工事を続ける。説明会も開くつもりはない」と断言した。
 県は樹木伐採や芝生広場を透水性舗装に変える改修計画を昨年秋に固め、県議会答弁で方向性を示し、一部報道で完成イメージ図も公表したと説明。「手続きに問題がなく県議会の議決も得た」と正当性を強調した。
 四月下旬に樹木に赤いテープが巻かれているのが見つかるまで、「四十五本伐採計画」は議会へも市民へも説明がなかったが、鈴木部長らは「県に任された裁量。議員はいちいち聞かない。いろんな事業で事細かに(情報を)出さない」と言い切る。
 県によると、今回は既存公園の改修にすぎないため、有識者会議や、県民の意見を聞く「パブリックコメント」の対象にしなかった。それでも、丁寧な手続きを取るため金沢市の景観審議会に諮ったと強調している。
 報道で伐採本数が明らかとなり反対の声が上がったため、急きょホームページで説明したことは認めたが、「あらためて外部の意見を聞くなどして検討したがこのまま進めると決めた」と話した。
 説明会開催を求める市民に、県側は「質問は受けるが説明会は開かない。行くつもりもない。その時期は済んだ」と突き放した。
 「県庁ルールばかり強調し市民目線のかけらもない」。県庁を後にする市民の一人は、こう言って肩を落とした。(街づくり問題取材班)

北陸中日新聞 2013年5月21日 朝刊

c0309082_16274687.jpg


◇◇◇◇◇

まあ、相変わらずですね、県は。
ここまでくると笑ってしまいます。まるで、自分の主張を頑として譲らない子ども、もしくは頑固おやじ。
この意固地さはどこから来るんだろう?と考え、ふっと佐倉統さんの「少数意見の常駐」を思い出しました。

「少数意見の常駐」は、『考える人』2013年冬号に掲載された評論で、「「便利」は人間を不幸にするのですか?」という連載の一環として書かれたものです。
この中で佐倉さんは、社会における科学技術をどう扱うか、その制御と管理を今までの日本はどう行ってきたか、これからはどうあるべきか、ということを考察なさっています。
そのなかで、日本社会における「異論の排除」という特徴を指摘しています。

「異論の排除」について簡潔にまとめますと……

あるプロジェクトや事業を進める際、問題や事故が起こった場合どうするかというリスクを考えておく必要がある。が、全てのリスクを考慮することはできないから、どこまで対応するか、どこからしないかの範囲を決めなければならない。が、その範囲外のリスク事象であっても、万が一起こった場合の対処法は考えておかなければならない。が、その範囲外のリスク事象への対処法を考えることさえしない。対処法を提言する意見や提案を排除する。

これが「異論の排除」です。(私なりのまとめ方ですが)

長くなりましたが、ここからが本題。

こうした「異論の排除」の存在を指摘した上で、佐倉さんはこう述べています。

リスクは常に存在するものであり、専門家や事業者だけでは事前にすべて対応することはできず、住民や市民と共同してリスクに対応することが必要不可欠なのだという意識が欠如しているのである。事に当たるのは、いついかなる時も為政者の側であるというパターナリズムが根強いと言うべきだろう。」(佐倉統「「便利」は人間を不幸にするのですか? 少数意見の常駐」『考える人』2013年冬号、139頁)

この部分が、私の頭のなかにふっと浮かび上がり、中央公園の問題とつながりました。

上に引用した文章を含め、佐倉さんが「リスクへの対応」として指摘しているのは、プロジェクト自体に問題が起きた場合です。(佐倉さんは原発事故に対する対応を例に挙げています。)なので今回のように、プロジェクトに対し反対の声が上がる、という問題とは意味合いが異なります。
ですが、計画に対し反対の声が上がるという「リスク事象」への石川県の対応に問題があるという点で、私の中では重なるところがありました。

新聞の報道によって計画が明るみに出てから今日に至るまで、反対の声に対する県の対応の仕方は全くと言っていいほど変化していないように思います。
「計画は決定している」「説明会は開かない」という同じ主張を繰り返すのみで、反対派を多少なりとも納得させようという努力・工夫をせず、そのために余計事態を悪化させている。
ここで最初の疑問に戻りますが、なぜ県はあのような硬直した対応しかできない(もしくはしない)のか。
すぐに思いつくのは2つ。

①反対の声が上がるというリスク自体を想定していなかった。つまり、対処法を考えていなかった。
反対の声が上がるかもしれないという予想くらいはしていたかもしれませんが、それを「リスク事象」として、対処法を想定するまでには至らなかった。リスクに対する認識の甘さから来るものですね。

②反対の声が上がるというリスクを想定し、もしそうなった場合は県の主張をとにかく繰り返し、反対の声は無視しましょうという決定を行っていた。
再整備計画の邪魔となる意見や要望があれば排除する。いちばんタチが悪いやりかた。でも、あってもおかしくないなと思えます。

この2つのうちのどちらかにしろ、これ以外にしろ、県の強引な対応に何かしらの問題があることは明らかです。佐倉さんは、「自分たちが進める方針や展開にそぐわないものは排除する、少なくとも無視するという姿勢が、そこには通底している。異論の排除――。これは、進むべき方向が明確であるときには、とてつもない強みを発揮する一方で、そうでないときには制度と対応の硬直化を招くことになる」(同上、139頁)とも述べていますが、やはり石川県の姿勢と重なります。まさに、「事に当たるのは、いついかなる時も為政者の側であるというパターナリズム」がありありと見て取れます。

こうした県のスタンスというのはトップの姿勢によるところが大きいので、県知事が交代しない限り変わることはないでしょう。
来年には県知事選挙があるということで、改めて考え直す良いきっかけを県が与えてくれたと思うことにします。

追記:5月21日現在、中央公園の木々の伐採は着々と進んでいます。そんな中、対象となっている樹木のうち、生育状態が良好なものは切らずに移植するという考えを県が示していることが分かりました。無闇に伐採されるよりかは、樹木にとって良い選択です。これから中央公園がどうなっていくか、この問題がどう展開していくか、さらに注視していきたいと思います。


:文章内の新聞記事、写真は、北陸中日新聞5月21日朝刊から引用させていただきました。以下に参考リンクを明記いたしますので、ぜひご参考になさって下さい。

【参考リンク】
中日新聞:北陸発:北陸中日新聞から(CHUNICHI Web)
石川県ホームページ

【ブログ内関連記事】
続き:『花岡ちゃんの夏休み』―中央公園の思い出




「便利」は人を不幸にする (新潮選書)
佐倉 統
新潮社
売り上げランキング: 447,800

[PR]
by hitsujigusa | 2013-05-22 17:21 | エッセイ・評論・その他 | Trackback | Comments(0)