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鷺沢萠『海の鳥・空の魚』―いとおしい人々

海の鳥・空の魚 (角川文庫)


【収録作】
「グレイの層」
「指」
「明るい雨空」
「東京のフラニー」
「涼風」
「クレバス」
「ほおずきの花束」
「金曜日のトマトスープ」
「天高く」
「秋の空」
「月の砂漠」
「ポケットの中」
「アミュレット」
「あたたかい硬貨」
「カミン・サイト」
「柿の木坂の雨傘」
「普通のふたり」
「星降る夜に」
「横顔」
「卒業」


 9月20日は空の日だそうです。ということで、それに合わせて今回はタイトルに“空”が入る、鷺沢萠(めぐむ)さんの短編集『海の鳥・空の魚』をフィーチャーします。

 作者の鷺沢萠さんは大学1年生だった1987年に「川べりの道」で文學界新人賞を受賞してデビュー。その後、3度の芥川賞候補、2度の三島由紀夫賞候補などを経て、1992年「駆ける少年」で泉鏡花文学賞を受賞。精力的に創作活動をつづけ、複数の作品が映画化されるなど活躍しましたが、2004年4月11日に自殺、35歳の若さで亡くなられました。
 亡くなってからそれなりに時間が経っているということもあり、また、現在は著書の多くが絶版になっているということもあり、最近では文学好き以外で鷺沢さんの名を知っている方はあまりいないかもしれません。かくいう私もリアルタイムでは鷺沢さんのことを知らず、亡くなってから鷺沢さんの著書を読むようになった遅れてきたファンです。ですが、月日の隙間に埋もれてしまうにはあまりにも残念な、類い稀な文章センスと繊細な感性を持った小説家であり、そういった意味合いも込めて、鷺沢さんの小説を紹介したいと思います。

 『海の鳥・空の魚』は1987年から1989年にかけて『月刊カドカワ』に連載された作品を1冊にまとめた短編集。収録された20の短編はどれも10ページほどの短さで、普通の人々の人生のささやかな一場面を切り取った短編群となっています。
 鷺沢さんはこの本のあとがきでこう記しています。


 どんな人にも光を放つ一瞬がある。その一瞬のためだけに、そのあとの長い長い時間をただただ過ごしていくこともできるような。(中略)うず高く積まれてゆく時間のひとコマひとコマ、その全てを最高のものに仕立てあげるのはとても難しいことだ。難しいことだから、「うまくいった一瞬」が大切なものになるのではないだろうか。
 神様は海には魚を、空には鳥を、それぞれそこにあるべきものとして創られたそうだが、そのとき何かの手違いで、海に放り投げられた鳥、空に飛びたたされた魚がいたかも知れない。エラを持たぬ鳥も羽根を持たぬ魚も、間違った場所で喘ぎながらも、結構生きながらえていっただろう。



 海を泳ぐ鳥、空を飛ぶ魚のように、自分の居場所に居心地の悪さを感じる人々、生きにくさを感じる人々が、この短編集の主人公たちです。そんなふうに言うとちょっと特別なように感じられるかもしれませんが、どの主人公もどこにでもいる普通の人々です。意識的にと思われますが、見た目についての描写もほとんどなくて、風貌も喋り方もさして特徴のない、ごく平凡な人々ばかりです。
 主人公たちは連載当時の鷺沢さんと同世代の学生や若者が多く、若さゆえの屈折や日常への憂鬱さを抱えつつも、その日常を破壊しようとするほどの強い願望もアグレッシブさもなく、普通の日常を受け入れています。物語の中では劇的なドラマも事件も起きません。ただ、何かが起こる前の段階の瞬間を描いていて、小さな光がきらめくシーンを鮮やかに映し取っています。
 「指」という話では、ガソリンスタンドで働く主人公・喜一のかすかな心の揺れを、“指”を通して描き出します。黒く汚れた自分自身の指、同僚の悦子のしもやけで腫れた指、スタンドにやって来た赤いアウディの助手席に乗った女のしなやかで長い指。決して特別な風景ではなく、喜一にとっても見慣れた仕事場の風景。しかし、その中で目にした女の美しい指が、喜一の心にさざ波を立てます。だからといって喜一と客の女とのあいだに何かが起こるわけでもなく、ただ店員と客として一瞬交差するだけなのですが、何でもない瞬間が忘れられない瞬間に変わる境目を印象的に描写しています。

 そんなふうにこの作品集の中で繰り広げられるドラマはありふれた日常の連なりで、ストーリー的にも目新しさやあっと言わせられるような驚きの展開が用意されているわけではありません。文章的にも鷺沢さんはなにげない風景を模写するスケッチのような軽やかさで、主人公たちの心模様や風景描写を淡々と綴っていきます。にもかかわらず、それらの景色は確かな輝きを湛えた光景として鮮やかに目に映ります。それはどの物語にも、人生を肯定する明るさが通底しているからではないかと思います。
 「クレバス」という短編では、災難続きの主人公がかつて知人から言われた言葉としてこんなセリフが登場します。


 ――人生には不運な時期があるよ。雪山のクレバスにはまってしまうみたいなね。そういう時はなるべく首を縮めて、時間が上を通り過ぎるのを注意深く待つのさ。次に首を伸ばしたときには、きっと素敵な眺めを見られるものだよ。


 一部の例外を除いて、ほぼ全ての作品にこの一文が伝える“希望”がベースにあって、退屈な日常や鬱屈した感情を描いていても重々しさはなく、心をふっと軽くしてくれる気持ちの良さに繋がっています。
 そして、それは主人公たちの姿にも通じていて、彼らは皆やりきれない思いを抱えたり捨て鉢な態度をとったりと、形は違えどちょっとした不幸せや不運に見舞われています。ですが、絶望感みたいなものは感じられず、むしろどこか明るささえ漂っています。人生なんてこんなもんだという諦めも多少なりともあるかもしれませんが、それ以上になにげないことも自分の支えにして一生懸命生きていこうとする前向きさの方が強いような気がします。一生懸命というと熱い感じもしますが、言い換えれば自分の日常・人生を自分の足でちゃんと歩いていこうとする強さでしょうか。一見普通のことですが、それができない人も意外に多いもの。代わり映えのしない毎日に時々投げやりになったり嫌気が差したりすることもあるけれども、それでも人生を投げ捨てることなく、普通の日常を普通に送る。そういう普通のことを何でもない顔でできることが、実は何よりも立派ですごいことなんじゃないかなと思います。
 20の短編の主人公たちはそれぞれ日常にピリリと刺激を与えるドラマに出くわします。世の中には些細な出来事をきっかけに人生を大きく転換させる人もいるでしょうが、彼らはたぶん約10ページのドラマが幕を閉じた後もそれまでどおりの日常を歩いていくのだろうという気がします。それは消極的なのではなく、“普通”であることを大切にできるということ。個性的でも華やかでもないけれど、紛れもなく世界に一つだけのかけがけのない自分の人生を生きるということだと思います。だからこそ、他人から見れば何でもないささやかな一瞬がとてつもなく嬉しかったり勇気づけられたりするのでしょう。そんな“普通”の人々のことを、私はとてもいとおしく感じます。そして彼らは小説の中の住人ではなく、この世界のいろんなところにいます。それは家族であり、友人であり、同僚であり、近所の人々であり、見知らぬ他人であり、自分自身でもあります。

 自分にも似た“普通の人”の姿を20の物語の中に見つけて、なんとなく救われたり元気づけられたり、自分自身をも肯定してもらえているような気分になったり。こんな自分でもいいんだと思わせてくれる、読んだあとに心がほどける短編集です。残念ながらこの本も絶版になっていて新品では手に入りませんが、電子書籍で読むこともできますので、ぜひ機会があれば読んでみてください。


:記事内の引用部分は鷺沢萠『海の鳥・空の魚』(角川書店、1992年11月)から引用させていただきました。


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by hitsujigusa | 2015-09-19 00:34 | 小説