坂田靖子『水の片鱗 マクグラン画廊』―温かく柔らかい美術マンガ

水の片鱗―マクグラン画廊 (白泉社文庫)



【収録作】
「水の片鱗」
「管財人のなやみ」
「鬼水仙」
「南の島へ」
「春のガラス箱」


 7月も最終日となり、夏の盛りである8月が訪れようとしています。そんな8月の最初の日、8月1日は水の日です。水の日というのは国際的なものと国内的なものと二つあって、国連が決めた「世界水の日」は3月22日ですが、日本国内では旧国土庁が1977年に決めた「水の日」が8月1日ということになっています。
 ということで、今回はタイトルに“水”という言葉が入っている漫画、『水の片鱗 マクグラン画廊』をご紹介したいと思います。

 坂田靖子さんの『水の片鱗 マクグラン画廊』は画廊の経営者マクグランを主人公とした「マクグラン画廊」シリーズの4編と、それとは全く別の読み切り作品「春のガラス箱」を収録した作品集です。この記事では「マクグラン画廊」シリーズについてのみ、書いていきます。
 「マクグラン画廊」シリーズは「花模様の迷路」に始まり、「南の島へ」で幕を閉じる7作のシリーズで、白泉社から出版されている『水の片鱗』にはそのうち後半の4作が収められています。一方で、前半の3作は早川書房から出版されている『花模様の迷路』に収められていて、同じシリーズなのにバラバラの出版社に分かれています。ただ、同じシリーズといっても1話完結型なので、これらの2冊を別々に読んでも十分楽しめます。
 とはいえ、やはり1つのシリーズなので、『水の片鱗』に入っていない前半の3作も含め、「マクグラン画廊」シリーズ全体をざっくりと見渡してみたいと思います。


「花模様の迷路」
 美術商マクグランは上客のベック氏に依頼され、ある貴族の庭にあるという噴水の彫刻を見に行く。ベック氏の話によればその彫刻はミケランジェロ作とのことだったが、実際はどこにでもあるような普通の彫刻だった。しかしベック氏はその彫刻を買い取ると言い、マクグランは渋々その交渉に赴く。屋敷と庭園の持ち主であるクラウトン卿と息子は快諾するが、クラウトン卿の甥で同居している青年パトリックは、彫刻を買い取るというマクグランの申し出に妙な反応を見せて――。
 迷路のある重層的な庭を舞台に繰り広げられる人間ドラマ。一見大した代物ではない彫刻の売買話をきっかけに、貴族の叔父といとこに遠慮して生きる一人の青年の心に立ったさざ波を、“庭”というモチーフとうまく絡めながら描いていて、古き良きイギリスの雰囲気を存分に味わえる一編です。

「天空の銘」
 ある日、マクグランの事務所にアラブ人のモハマド・サラームと名乗る男が訪れる。サラーム氏は自分の召使いが金銀の細工や宝石が施された表紙付きの教典を盗んで逃げたのでそれをマクグランに見つけ出してほしいと言い、前金として宝石を残して去っていった。マクグランはさっそくその教典らしきものが最近の競売に出品されていないか調べるが――。
 謎のアラブ人によって持ち込まれた“教典”を巡る不可思議な事件にマクグランが巻き込まれる話で、ドタバタ劇的な面もありつつ、次々に起こる奇妙な出来事に張り巡らされた巧妙な伏線が組み合わさった、読みごたえのあるミステリーとなっています。また、キーパーソンとなる人物がアラブ人ということで、イスラム美術が重要なモチーフともなっていて、美術をテーマにしたシリーズならではの魅力が詰まった作品ですね。

「白い葡萄」
 田舎町を訪れていたマクグランは、偶然古道具屋で雨宿りをする。マクグランが美術商であることを知った古道具屋の主人は相当に古びた葡萄の絵の鑑定をマクグランに依頼する。絵としては価値は低かったが、雨宿りのお礼にマクグランは葡萄の絵を買い取る。しかし、その絵を上客のベック氏が買いたいと言い出して――。
 由来のわからない不気味な葡萄の絵によって引き起こされる幽霊騒動、そして絵について何かを知っていそうなわけあり風の男など、いくつもの謎が積み重なりまた謎を呼ぶほんのりホラー風味のミステリーです。一つの絵に秘められた歴史、記憶、人間の想いにまつわる物語でもあり、読後感が切ない作品です。

「水の片鱗」
 マクグランの友人クレイトン・カサウェイは幼い頃亡くなったと思っていた妹がヨークシャーの僧院にいると聞き、同じところに買い付けの用があったマクグランとともに僧院を訪ねる。しかし、妹はすでに去ったあとで、しかも妹が商売女のような暮らしをしていたと知り――。
 ミステリアスな女性を巡る物語ですが、「天空の銘」や「白い葡萄」のようにマクグランが問題解決に臨むというよりは、偶然のいきさつから真実にたどり着く「花模様の迷路」に近い雰囲気でしょうか。こちらは“水”をモチーフに、田舎の荒れ果てた僧院や謎の画家集団など、どこかもの悲しい空気感が印象的な一編です。

「管財人のなやみ」
 マクグランの得意客であるベック氏が結婚を考えているという。マクグランはベック氏に彼女への贈り物を探すよう頼まれ快く引き受けるが、ベック氏の管財人であるアスキンズ弁護士はその彼女が寄席の踊り子というベック氏と不釣り合いの女性であること、金目当ての結婚と考えられることを理由に、二人の結婚に難色を示す。マクグランはベック氏の結婚相手であるミス・タリントンを訪ね、下町の寄席に向かうが――。
 シリーズの準レギュラーともいえるベック氏の結婚騒動を描いた喜劇。終始明るく陽気、コミカルで、美術を愛するベック氏の魅力満載、そして常にベック氏に振り回されつつも、なぜか憎めずついつい乗せられて協力してしまうマクグランのキャラクターが存分に生かされた楽しい作品になっています。

「鬼水仙」
 ある日、マクグラン画廊のウィンドウに飾られた絵画を食い入るように見つめる初老の婦人が現れる。マクグランは婦人に絵を勧めるが、婦人は金銭的なことを理由に絵を諦めて帰っていった。しかしその夜、マクグランが帰り支度をしているとその婦人が人目を忍びながら画廊にこっそりと入り込み、なんと目当ての絵を盗もうとし――。
 一見どこにでもいそうな普通の女性がマクグラン画廊に盗みに入るといういきなり物騒な形で幕を開ける作品ですが、実際はかつて憧れた亡き男性を想い続ける初老の女性のロマンティックなラブストーリーとなっています。その中にもシリーズ特有の思いがけぬ方向へ転がっていくミステリー的要素もしっかりあって、短編でありながらもひとりの人間の人生の悲喜こもごもが凝縮されていますね。

「南の島へ」
 マクグラン画廊で売り出したばかりの南方の不気味な仮面。芸術品とはいえないその仮面を、なぜか思いつめたように見つめる一人の青年がいた。マクグラン画廊のスタッフであるミス・モーガンはその青年が気になって仕方がなく青年にわけを訊くと、彼は以前南方の島の娘と結婚しており、この仮面はその島の神様なのだと話して――。
 ある美術品(この場合は仮面という民芸品ですが)に並々ならぬ想いを抱く人物の物語という点ではシリーズの定番ですが、この作品が珍しいのはたびたび脇役として登場してきたミス・モーガンが語り手的な役割を果たしていることです。南の島からはるばるイギリスのロンドンまでやって来た仮面と、その南の島に行きたいのに行けない青年とのちょっぴり不思議なつながりとは……。ここでもなぜかベック氏が予想外の働きをします。


 というのが「マクグラン画廊」シリーズの全容です。改めてまとめますと、「花模様の迷路」から「白い葡萄」までが早川書房刊の『花模様の迷路』に、「水の片鱗」から「南の島へ」までが白泉社刊の『水の片鱗』に収められています。
 ここで作者の坂田靖子さんについておさらい。
 坂田靖子さんは大阪生まれ、金沢育ちの漫画家です。1975年に『花とゆめ』掲載の「結婚狂騒曲」でデビューし、以降もさまざまな漫画誌で活躍しています(詳細はデビュー40周年を記念して出版された特集本『坂田靖子 ふしぎの国のマンガ描き』をご参考下さい)。
 代表作は10年近くに渡って描かれた「バジル氏の優雅な生活」シリーズ。「バジル氏~」はイギリスが最も華やかで栄光に満ちていた19世紀のヴィクトリア朝時代が舞台。首都ロンドンに住む貴族バジル・ウォーレン氏の身の回りで起こるささやかな出来事から犯罪めいた事件まで、大小色とりどりの騒動にバジル氏とその召使いや友人たちが巻き込まれつつも知恵を使って解決していく物語です。
 坂田さんの漫画には、こうした古き良きヨーロッパの習俗や文化、風土を取り入れたものが多くあります。また、昔話や童話に材を取ったようなファンタジックな作品も多々あり、そこから発展してSFチックな漫画も手がけていて、簡単にジャンルで一括りできない、本当に多岐に渡る漫画家です。
 そして何より特徴的なのがその著作の多さで、主に短編やショート・ショートを手がけているため必然的に数も多く、一方スパンの長いシリーズものというのはそんなに多くないので、その分誰もが知るというよりは、知る人ぞ知る漫画家、になっているのかもしれません。ですが、大作ではなく小品を積み重ねているからこそ、小品の中に人間の人生の機微や悲喜をぎゅっと凝縮して描くことに長けていて、そこにはまるで長編かと見まごうような密度の濃さがあるのですが、でも形式は短編なのでサラッと読めてしまう気軽さがあり、そうした中身と外見のギャップみたいなものが、坂田さんを類い稀なる似るものぞなき漫画家にしているのかなと思います。

 さて、閑話休題して「マクグラン画廊」に戻ります。
 「マクグラン画廊」はイギリスのロンドンが舞台です。時代設定は異なりますが、イギリスものという意味では「バジル氏~」の系譜上にあるといえます。ですが、「バジル氏~」と比べるとよりコメディ的要素が強く、そもそも軽妙でウィットに富んだタッチというのは坂田漫画の最大の魅力、得意技なのですが、それが「マクグラン画廊」では前面に押し出されています。しかしただライトなだけかというと決してそんなことはありません。人間の愚かさや悲喜劇を斜めに見るちょっぴりシニカルで冷めた目線あり、人間の心理を鋭くとらえたささやかだけれども緻密な人物描写ありで、軽妙であるというのと、ただ軽いというのとは違うのだなと感じさせられます。
 何よりこのシリーズにおいて重要なモチーフ、陰の主役ともいえるのは美術品でしょう。ほとんどの事件、騒動がマクグランが出会った美術品に端を発するわけですが、その美術品にリアリティがなければ、いくらお話がおもしろくても“美術商のハナシ”としては嘘っぽくなってしまったのではないかと思います。ベルニーニ風の彫刻、15世紀のイスラムの装丁付き教典、グィネヴィア王妃と騎士たちの絵画、南太平洋の島の仮面――。知識に裏付けされたものがあるからこそ描かれるものにもリアリティが漂うのだと思いますし、作者の世界の文化や歴史に対する確かな理解が、物語にも説得力を与えているのでしょう。

 でも、何といっても「マクグラン画廊」の軽妙で愉快な空気感を作り出しているのは、生き生きとした登場人物たちです。
 最も強烈で個性的なキャラクターは、マクグラン画廊の一番の顧客であるベックさんです。ベックさんは大金持ちで、ラファエロ好きの美術愛好家。しかし美術品を見る目はあまりなく、無名の画家も、偉大な巨匠も、高貴な芸術品も、陳腐な骨董品も分け隔てなく愛する変わり者です。マクグランはこのベックさんの依頼によってしばしば面倒くさい騒動に巻き込まれるわけですが、にもかかわらずベックさんは憎めない存在であり続けます。ベックさんは作り手が有名であるとか無名であるとかに関係なく自分が良いと思ったものは何でもホイホイ買ってしまう人で、その分他者から見れば悪趣味ともとらえられかねないのですが、だからこそ金額や名前に惑わされることなく心から美しいと感じたものをこよなく愛するピュアな心の持ち主という人柄がにじみ出ていて、それが彼が愛すべきキャラクターとなっている最大の要因だと思います。
 一方で主人公のマクグランはいたって普通の人物です。彼は毎度騒動の巻き添えになるわけですが、彼が自分自身で積極的に関わることはほぼありません。むしろ嫌々、渋々面倒くさい仕事を引き受けてしまうのです。が、面倒くさがりながらもついつい首を突っ込んでしまうというところがマクグランの魅力で、これが自ら能動的に事件を解決しよう!という主人公だと、まるで正義の味方か刑事かなんかの熱血物語になってしまうところですが、騒動の嵐の中にいても終始傍観者的なドライさを失わないマクグランだからこそ、この物語自体も熱すぎず冷たすぎず、ちょうど良い温かさの物語になっているのでしょう。
 傍観者、というと悪く聞こえるかもしれませんが、言い方を変えるならやっぱり“普通の人”ということです。普通の人だからこそ突拍子もない出来事に出くわすとそれをどんと構えて冷静に受け入れることができず、慌てふためいたりパニックになったりし、当事者なのにどこか当事者になりきれず自分の身に起きていることではないような心持ちになってしまう。それこそが普通の人らしさであり、まさにマクグランはそんな人なのです。他方で、混乱しつつもあくまで美術商として自分の仕事を全うしようとするまじめさも大いにあり(時に不まじめさが顔をのぞかせますがそれも普通の人なら普通のことですね)、いろんな意味でとことん貫かれている主人公の普通さというのが、このシリーズのポッと心が温まるような空気感を作り出しています。

 最後になりましたが、いわずもがな絵も「マクグラン画廊」のおもしろさを支える魅力の一つです。坂田さんの絵は精密に描き込むタイプの絵ではありませんが、余計な線を排除した簡潔な絵からはゆとりが感じられて、それもまたシリーズののほほんとした雰囲気を伝えています。逆に美術品に関してはデフォルメされている他の風景とは対照的にしっかりリアルに描かれていたり、夜のシーンの暗闇の濃さだったり、濃密な部分と余白の部分にちゃんとメリハリがつけられていて、シンプルな絵柄ではあるものの、英国の情緒を繊細に描き出しています。

 坂田さんの漫画は陽気なものからシリアスなもの、西洋ものからアジアものからSFから歴史ものまですごい振り幅がありますが、共通して感じるのは垣根の低さです。「マクグラン画廊」もストーリーだけを取り出すとけっこう重いのもありますし、美術商が主人公という専門性の高い設定でもあるのですが、それを誰が読んでもわかりやすく楽しめる作品にしています。ほかの作品を見渡しても古典を基にした話や、サイエンスティックな話、民俗学的な話など豊富な知識を活かしたマニアックな漫画が多々あるのですが、どれも一部のマニアにしかわからないような難解な作品にはなっていません。難解で高尚な知識に裏付けされていても、難解さや高尚さをそのまま表現するのではなく、柔らかく噛み砕いて読み手に提供してくれていて、そんな作者本人のソフトな物腰というのが、描かれる漫画の開放感、誰でも受け入れてくれる懐の深さに繋がっているような気がします。
 そんな坂田漫画の魅力がたっぷり詰まった「マクグラン画廊」シリーズ。今回は「水の日」にちなんで『水の片鱗』をメインとして取り上げましたが、順番的にはその前になる『花模様の迷路』、また、ここではシリーズに含めませんでしたが、マクグランが登場する話として「孔雀の庭」(早川書房刊『パエトーン』に収録)という短編もあり(発表順としてはたぶんこれが一番最初)、どれから読んでも全然問題ないと思います。さらに、坂田さんの経歴、作品の数々を振り返る『坂田靖子 ふしぎの国のマンガ描き』という理解がより深まる本もあり、こちらもおすすめです。


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by hitsujigusa | 2016-07-31 01:35 | 漫画 | Comments(0)